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鈴木善幸 : ミニ英和和英辞書
鈴木善幸[すずき ぜんこう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [すず]
 【名詞】 1. bell 
: [き]
 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber 
: [ぜん]
 【名詞】 1. good 2. goodness 3. right 4. virtue 
: [さち]
 【名詞】 1. happiness 2. wish 3. fortune 

鈴木善幸 : ウィキペディア日本語版
鈴木善幸[すずき ぜんこう]

鈴木 善幸(すずき ぜんこう、1911年(明治44年)1月11日 - 2004年(平成16年)7月19日)は、日本政治家位階勲等正二位大勲位
郵政大臣第15代)、内閣官房長官第26代)、厚生大臣第43代)、自由民主党総務会長(第15・17・23代)、農林大臣第48代)、自由民主党総裁(第10代)、内閣総理大臣第70代)などを歴任した。
== 来歴・人物 ==

=== 前半生 ===
岩手県下閉伊郡山田町のアワビ、スルメ漁、水産加工業を営む網元の家に生まれた。水産学校を経て水産講習所(後の東京水産大学・現東京海洋大学)に入学、学生時代の弁論大会で網元制度の前近代性に疑問を投げかける主張を行ったこともあり、就職時には思想傾向を理由に不採用になったこともある(共産主義思想と見なされた)。
水産講習所卒業後、日本水産界の総帥と言われた大日本水産会会長の伊谷似知次郎の秘書となり、全国漁業組合連合会、岩手県漁業組合連合会に勤務したのち、中央水産業会企画部次長を務めた。太平洋戦争中の1944年(昭和19年)には秋田県歩兵連隊に赤紙召集され3ヶ月の訓練を受けるも、分隊長の「君は水産の大事な仕事をしていたようだから軍隊よりそちらで働く方がお国のためになる」という計らいにより、召集を解除され元のポストに復帰する。1947年(昭和22年)に日本社会党から第23回衆議院議員総選挙に出馬、初当選。水産常任委員会の委員として、水産庁の設置をはじめ漁業法水産業協同組合法の成立等戦後の水産政策に大きな役割を果たす。後、社会革新党に移る。しかしカスリーン台風アイオン台風襲来により地元が大きな被害を受けると復興のため奔走するも弱小政党だった社会革新党の議員ゆえに何も成果を残せない現実に幻滅、ついに次期総選挙への不出馬を明言するに至るも一方で支持者からは鈴木の与党移籍を求める声が高まり、同郷の先輩代議士小沢佐重喜の引き合いで吉田茂率いる民主自由党に移り、以後保守政治家となる。保守合同後は池田勇人宏池会に所属。池田に側近として可愛がられたこともあり、その後はトントン拍子に保守政界での地位をのぼりつめる〔サンデー毎日、1980年7月27日号181頁〕。1960年第1次池田内閣郵政大臣として初入閣。第3次池田内閣改造内閣では内閣官房長官に就任するが、すぐに池田首相が病気で退任を受けた第1次佐藤内閣で前内閣のメンバーが留任させる居抜き内閣を取る中、官房長官人事のみ佐藤派の橋本登美三郎を就任させたため、退任となった〔当初佐藤からは留任するよう慰留されたものの、池田に殉じる思いからこれを固辞したという。『等しからざるを憂える。 元首相鈴木善幸回願録』p160-162 岩手日報社 2004年〕。その後、改造内閣では官房長官退任となった代わりとして厚生大臣に就任した。その後、福田赳夫内閣農林大臣などを歴任。党総務会長を10期務めるなど、裏方で力を発揮する調整型の政治家とみなされていた。三木武夫の退陣後の『大福密約』では大平派の大番頭としてこれを取りまとめ、大平正芳が総理総裁になった際には、自民党幹事長に起用されかけたが、田中角栄二階堂進と関係が近すぎるとして福田派など反主流派が反発し取りやめになっている(斎藤邦吉が就任)。
一方では、盟友の田中角栄と組み、後の三陸鉄道の前身となる国鉄宮古線久慈線盛線の開通を進め、また県内の選挙戦勝利の見返りとして国立岩手山青年の家の設置を佐藤栄作首相に働きかけたり、岩手と秋田を結ぶ仙岩トンネル仙岩道路)の建設、国民休暇村雫石町への誘致、地元選挙区の岩手県田老町(現・宮古市)にはグリーンピアを建設したり、実施第一次計画では仙台駅までの予定であった東北新幹線を、地元の盛岡駅まで延伸させるよう強い圧力をかけたとされる〔当時、鉄道建設審議会長であった鈴木は新全国総合開発計画の流れを受けて全国新幹線鉄道整備法を議員立法で制定したが、国鉄の財務状況の悪化により、東北新幹線は採算性を重視する大蔵省運輸省・国鉄側が仙台説を強く打ち出してきた。新全総や当時の鉄建審の法案要綱では青森から青函トンネルを抜け札幌まで延伸させる計画(後の北海道新幹線)であったため鈴木はこれに難色を示す。「しかし大蔵、運輸、国鉄がそう言うんであれば二回に分けてやらざるを得ないが、仙台までといえば、もうかるところしかやらんというようなことになる。国鉄の性格として、そういう民間鉄道と同じように、採算のとれるところしかやらんというのであれば、国鉄の使命というものはないではないかと。だからせめて盛岡までは絶対に譲るわけにはいかない、そうでなければ鉄建審に諮問案としてかけることはまかりならん」と強く反発。結果、『建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画』において東京都-盛岡市として決定された。『元総理鈴木善幸 激動の日本政治を語る 戦後40年の検証』p166-168 岩手放送、1991年〕など利益誘導による地元還元をする政治家としての側面も存在した。自民党総務会長、鉄建審会長として地元の鉄道網、漁港、港湾、道路、東北自動車道三陸縦貫自動車道の整備に影響力を発揮した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「鈴木善幸」の詳細全文を読む




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