翻訳と辞書
Words near each other
・ 足利町
・ 足利直冬
・ 足利直義
・ 足利県
・ 足利短期大学
・ 足利短期大学附属高等学校
・ 足利競馬場
・ 足利竹若丸
・ 足利義久
・ 足利義俊
足利義兼
・ 足利義冬
・ 足利義利
・ 足利義助
・ 足利義勝
・ 足利義博
・ 足利義嗣
・ 足利義在
・ 足利義実
・ 足利義宣


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

足利義兼 : ミニ英和和英辞書
足利義兼[あしかが よしかね]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [あし]
 【名詞】 1. foot 2. pace 3. gait 4. leg 
: [り]
 【名詞】 1. advantage 2. benefit 3. profit 4. interest 
: [ぎ]
 【名詞】 1. justice 2. righteousness 3. morality 4. honour 5. honor 
: [けん]
  1. (conj,n) and 2. in addition 3. concurrently 

足利義兼 : ウィキペディア日本語版
足利義兼[あしかが よしかね]

足利 義兼(あしかが よしかね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の武将鎌倉幕府御家人足利氏の初代義康の子で、第2代当主。
== 生涯 ==
幼い時に父を亡くした義兼は、伯父である源(新田)義重の軍事的庇護を受けていたとされる。
治承4年(1180年)に血縁的に近い源頼朝以仁王令旨に応じて伊豆国で挙兵すると、河内源氏の一族であり、また以仁王を養育した暲子内親王(八条院)の蔵人でもあった関係からか、義兼は比較的早い時期から頼朝に従軍していた。
元暦元年(1184年)5月、木曽義仲の遺児義高の残党の討伐において戦功を挙げた。その後、源範頼(頼朝の弟)に属して平氏を追討した功績により、頼朝の知行国であった上総国国司(上総介)に推挙された。文治5年(1189年)の奥州合戦にも従軍。建久元年(1190年)に出羽国において奥州藤原氏の残党が挙兵すると(大河兼任の乱)、追討使としてこれを平定している〔。
文治元年(1185年)に任ぜられた上総介を4年後の頼朝の知行国返上まで務めるなど、頼朝の門葉として幕府において高い席次を与えられていた。しかし頼朝の地位が高まっていくと、御家人として幕下に組み込まれることとなった〔。
建久6年(1195年)3月に東大寺で出家し、義称(ぎしょう)と称した。頼朝近親の源氏一族が相次いで粛清されたための処世術であったと言われている。義兼の死後も岳父北条時政の他の娘婿らが畠山重忠の乱に関与した疑いなどで次々と滅ぼされたが、足利氏は幕府内の地位を低下させながらも生き残った。出家後は下野国足利荘樺崎寺に隠棲し、正治元年(1199年)3月8日に同寺において死去した後、同地に葬られた。生入定であったとも伝えられている。現在の樺崎八幡宮本殿は、義兼の廟所である赤御堂である。鑁阿寺は、義兼が居館に建立した持仏堂を義氏の代に整備したものとされる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「足利義兼」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.