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賛育会病院 : ミニ英和和英辞書
賛育会病院[しゃかいふくしほうじんさんいくかい さんいくかいびょういん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [さん]
 【名詞】 1. legend 2. caption 
: [かい]
  1. (n,n-suf,vs) meeting 2. assembly 3. party 4. association 5. club 
: [やまい]
 【名詞】 1. illness 2. disease 
病院 : [びょういん]
 【名詞】 1. hospital 

賛育会病院 : ウィキペディア日本語版
賛育会病院[しゃかいふくしほうじんさんいくかい さんいくかいびょういん]

社会福祉法人賛育会 賛育会病院(しゃかいふくしほうじんさんいくかい さんいくかいびょういん)は、東京都墨田区太平三丁目にある医療機関社会福祉法人賛育会が運営するキリスト教病院である。もともと産院として発足したが、のちに他の診療科も発展して総合病院の承認を受けている。東京都の地域周産期母子医療センターNICU6床)の機能を有する〔東京都保健医療計画 105頁。区東部保健医療圏では、ほかに東京都立墨東病院1999年6月に総合周産期母子医療センターの指定を受けている。〕ほか、1998年6月には区東部保健医療圏(墨田区・江東区江戸川区)の先駆となる緩和ケア病床(22床)を設置している〔緩和ケア病床を持つ同医療圏の病院はほかにがん研究会有明病院都道府県がん診療連携拠点病院)があるが、同病院が豊島区上池袋一丁目から江東区有明三丁目に移転したのは2005年である。〕。病院の理念は、「キリスト教の「隣人愛」の精神に基づいた医療・保健活動を行い地域社会に貢献します。」
設置母体である賛育会(墨田区太平三丁目17番8号)は、東京都のほか、長野県静岡県で病院事業、訪問看護事業、高齢者福祉事業を手がけるほか、指定管理者として墨田区や中央区特別養護老人ホームの運営を行っている。本項では病院のほか、病院を設置運営する賛育会についても述べる。
== 沿革 ==

=== 賛育会の創設 ===
賛育会は1888年5月13日に結成された東京帝国大学学生基督教青年会東大YMCA)の会員有志によって、1918年に創設された。当時の医療は庶民には手の届かないものであり、東大YMCAは庶民に医療を提供するために、まず1917年に無料診療を行う診療所(青年会医院)を設置した〔『隣りびとの友として70年 「賛育会」歩みの記録』(社会福祉法人賛育会、1988年)3頁。齊藤實『賛育会を育てた人びと 河田茂と丹羽昇の生涯』(社会福祉法人賛育会、1988年)47頁。〕。苦情等で医院の継続が困難になると、当時の東大YMCA理事長で東京帝国大学法科大学教授吉野作造の指導の下、下層の母子に医療を提供することを目的として妊婦及び乳児の相談所を開くことになった。吉野は病没するまで夫妻で賛育会の活動に参加し、指導的役割を果たした。会については「婦人と小児の保護、保健、救療」〔法人公式サイト (2010年6月20日閲覧)より。〕を目的として、1918年3月16日に第1回総会を開き、設立を決定した〔病院公式サイト (2010年6月19日閲覧)では開設年月が大正7年〔1918年〕3月16日となっているが、これは診療開始日ではない。〕とされるが、実際のところは定かではないようである〔2010年現在の法人公式サイトではこの日に創立されたとされ、1988年出版の『隣りびとの友として70年』6頁および157頁には3月16日に発起人会が開かれたとするが、1994年出版の齊藤實『賛育会の七十五年』(社会福祉法人賛育会刊)27頁では、昭和32年(1957年)12月刊の東大YMCA『年表』に、この日に会合があったという記述がないことを指摘し、むしろ3月1日の「常務理事会」の議事に「賛育会」の文字があること、3月11日に「賛育会発起人会」が設置されたことから、すでに3月1日には「賛育会」として動き出していた、とする。〕。会の名称は、初代理事長である木下正中(元東京帝国大学医科大学産科学婦人科学講座教授)が『中庸』の第21章にある「天地ノ化育ヲ賛ク(てんちのかいくをたすく、万物の発育を助けるの意)」からつけた〔木下が『賛育会ニュース』(1934年7月5日付)に寄せた文章から。『隣りびとの友として70年』6頁。〕。
賛育会は1918年4月1日に本所区太平町一丁目27番地の古工場を借りて、「賛育会妊婦乳児相談所」を開設した。これが賛育会病院のはじまりとなった。翌1919年8月1日に本所区柳島梅森町55番地(現在の墨田区太平三丁目20番2号)に相談所を移転する形で本所産院が開設された。これは「日本において庶民を対象とする産院の最初」だったという〔『賛育会の七十五年』157頁、齊藤實『賛育会を育てた人びと』69頁。〕。医務は木下や河田茂(賛育会専務理事)など、経営面は藤田逸男(賛育会専務理事、東大YMCA主事)、吉野作造(賛育会理事)、星島二郎(賛育会理事、弁護士、後に衆議院議長)、片山哲(賛育会理事、弁護士、後に内閣総理大臣)が参画した〔『隣りびとの友として70年』15頁。同7頁によると、吉野は理事会には必ず出席したとのことである。このときの理事には吉野の妻、吉野たまのの名前が、監事には鳩山秀夫の名前が確認できる。〕。
1923年関東大震災で病院は罹災したが、職員は救護班を設置して救援活動にあたった。しかし、それまで木下の主張〔初代の病院長である石川正臣によると、地元の医師会との約束を守ろうとする木下の主張で無料診療だったということである。『隣りびとの友として70年』16頁(『賛育会ニュース』1952年1月10日号からの転載)。〕などにより原則無料診療であった病院は、それまで経済的に支援してきた木下の病院が同時に焼失したため、自立を要請され、無償の慈善事業から有償の社会事業に転換することになる〔実費診療への転換は吉野作造の方針によるものだが、このことは、1919年に河田茂が実費診療所の創設者である鈴木梅四郎から病院建設の寄付を受ける際に「早く慈善をやめて実費になさい」と言われたこととも関係するとされる。『賛育会を育てた人びと』96頁、『賛育会の七十五年』32頁。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「賛育会病院」の詳細全文を読む




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