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西園寺寧子 : ミニ英和和英辞書
西園寺寧子[さいおんじ ねいし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

西 : [にし]
 【名詞】 1. west 
: [その]
  1. (n,n-suf) garden (esp. man-made) 2. park 3. plantation 
: [てら]
 【名詞】 1. temple 
: [やすし, むしろ]
  1. (io) (adv) rather 2. better 3. instead
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

西園寺寧子 : ウィキペディア日本語版
西園寺寧子[さいおんじ ねいし]
西園寺 寧子(さいおんじ ねいし/やすこ、正応5年(1292年) - 正平12年閏7月22日1357年9月6日))は、鎌倉時代から南北朝時代の女性。後伏見上皇女御であり、光厳天皇及び光明天皇の実母。院号は広義門院北朝を存続させるため、事実上の治天の君(国王)の座に就き、天皇家の家督者として君臨した。女性で治天の君となったのも、皇室に出自せず治天の君となったのも、日本史上で広義門院西園寺寧子が唯一である。
== 生涯 ==

=== 前半生 ===
正応5年(1292年)、従一位左大臣西園寺公衡と従一位藤原兼子の間に出生した。母兼子は藤原氏の下級貴族の出自だったが、父公衡の西園寺家は代々朝廷・鎌倉幕府間の連絡調整を担当する関東申次の要職を継承しており、公衡も関東申次として朝廷政務の枢要に当たっていた。当時、朝廷は持明院統大覚寺統の両統が交互に政務を担当する両統迭立の状態にあったが、西園寺家は両統双方と姻戚関係を結んでいた。
乾元元年(1302年)、寧子は持明院統御所(富小路殿)で着袴の儀を執り行い、将来の持明院統への入内がほぼ約束された。そして、嘉元4年(1306年)4月、寧子は女御として持明院統の後伏見上皇の後宮に入った。
延慶元年(1308年)に後伏見上皇は弟の富仁親王を猶子とした上で、花園天皇として即位させた。翌延慶2年(1309年)正月、寧子は花園天皇の准母とされ、従三位に叙せられると共に、准三后及び院号(広義門院)の宣下を受けた。これにより寧子は国母待遇となり、後伏見上皇の本后の地位を得た(以下、本項では寧子を広義門院と呼ぶ)。広義門院はその後、後伏見上皇との間に量仁親王(後の光厳天皇正和2年(1313年)出生)と豊仁親王(後の光明天皇元亨元年(1321年)出生)をもうけた。
花園天皇の後に大覚寺統の後醍醐天皇が即位したが、後醍醐天皇は元弘元年(1331年)に倒幕計画の発覚により退位させられ(元弘の変)、量仁親王が光厳天皇として即位した。これにより後伏見上皇は治天の君となり、広義門院は名実備えた国母となった。しかし、その栄光も長くは続かず、元弘3年(1333年)には後醍醐側勢力が巻き返すと鎌倉幕府はあえなく滅亡し、後伏見上皇と光厳天皇もまた後醍醐天皇によってすぐに廃立された。
建武2年(1335年)、広義門院の甥西園寺公宗が後醍醐天皇を廃し、後伏見院政を復活して持明院統を再興する計画を立てたが、失敗に終わった。そして翌建武3年(1336年)、後伏見上皇が没したため、広義門院は出家した。その数か月後、またも世の形勢は変転し、後醍醐側勢力を打ち破った足利尊氏は光厳上皇を治天の君として迎えいれ、光厳院政が開始することとなった。広義門院は光厳上皇の実母として再び栄光を取り戻した。広義門院は故後伏見上皇の菩提を弔うため、延元4年(1339年)、洛南の伏見離宮に大光明寺を創建している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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