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藤原秀安 : ミニ英和和英辞書
藤原秀安[ふじわら]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [はら, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation

藤原秀安 : ウィキペディア日本語版
藤原秀安[ふじわら]

藤原 秀安(ふじわら の ひでやす)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の人物。奥州藤原氏第4代(最後)の当主・藤原泰衡の子とされる。
== 概略 ==
「岩手県史」第一巻には、「泰衡の子供については、胆沢郡小山村名号堂(今明後堂沢と云う)西風屋敷阿部家所蔵系譜によると、泰衡に男子二人があり兄時衡は討死、弟秀安は、樋爪俊衡入道に扶育されて成長し、子孫阿部氏(中頃安倍氏を称す)を称した」とある。この系譜の泰衡のところには「二子ヲ俊衡ニ委(ゆだね)テ、泉城ニ火ヲ放チ、臣河田次郎ヲ従ヒ、佐比内ニ逃遁ノ途、次郎返心シテ不意二討テ首ヲ頼朝ニ上ル。頼朝、次郎主ヲ討スル罪ヲ問ヒ、斬罪二処ス」とあるのだそうである。
岩手県史にはその系図も掲載されているが、それには時衡について、「文治五・九・三 討死 二〇」と記載されている。文治5年(1189年)9月3日というのはまさに泰衡が河田次郎の裏切りに遭い、殺された日である。源頼朝の軍はこれより先、8月22日に平泉に進駐しており、以降合戦があったとは『吾妻鏡』にも記されていない。従って、この記述を信じるとすると、時衡も泰衡が河田次郎に襲われたこの時に一緒に討たれてしまったと考えられる。
つまり、まず泰衡には時衡という長子がいたが、泰衡最期の地比内で父泰衡と共に河田次郎の軍勢と戦って討死し、弟の秀安が樋爪俊衡に匿われて無事成長したということのようである。岩手県史の系図にはこの秀安について「安元二生」と書いてある。安元2年は1176年であるから、父泰衡と兄時衡が死んだ時、秀安は14歳だったことになる。
樋爪太郎俊衡は文治5年(1189年)に勃発した奥州合戦の頃には出家して蓮阿と名乗っていたが、合戦後頼朝の陣に投降、この地を安堵された。その後俊衡は領内の大荘厳寺に居住したそうだが、そこで泰衡の子である秀安を育て、自分の娘の璋子を妻にさせたと伝えられているそうである。秀安と璋子の間には二児(秀宗、良衡)が生まれたという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「藤原秀安」の詳細全文を読む




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