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著作権の歴史 : ミニ英和和英辞書
著作権の歴史[ちょさくけんのれきし]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょ]
 (n) work
著作 : [ちょさく]
  1. (n,vs) writing 2. book 
著作権 : [ちょさくけん]
 【名詞】 1. copyright 
: [さく]
  1. (n,n-suf) a work 2. a harvest 
: [けん, ごん]
  1. (n,n-suf) authority 2. the right (to do something) 
歴史 : [れきし]
 【名詞】 1. history 

著作権の歴史 : ウィキペディア日本語版
著作権の歴史[ちょさくけんのれきし]
このページは著作権の歴史(ちょさくけんのれきし)について述べる。
著作権という概念は、印刷技術の出現とその後の一般大衆の識字率の上昇に伴い、考え出されたものである。著作権を表す英単語 copyright が示す様に、その起源は印刷業者による複製 (copy) の権利 (right) であり、18世紀初頭の英国において、印刷技術の独占権として発生した。英国において、国王は無秩序に本が複写されることを問題視しており、国王の大権 (royal prerogative) により1662年ライセンスに関する法律を成立させた。この法律では、ライセンスを受ける本の登録方法を確立した。そのためには、書籍出版業組合にその複写を預ける必要があった。本のライセンスは永久に永続し、長期にわたる利益を印刷業者に与えた。
最初の著作権法はヴェネツィアにおいて1545年に制定されている。しかし、現代の著作権法に一番影響を与えた最初の著作権法は、1710年、英国において制定されたアン法である。著者に新たな権利を一定期間与え、その期間が経過後、その権利がなくなるというものであった。各国において同様の法律が成立し、国際的には1887年ベルヌ条約が今日でも有効な著作権保護の範囲を定めた条約となっている。
現在の著作権は、作品を創作した作者の著作隣接権や、複製を作るために出資を行った後援者の経済的な権利や、複製を個々に所有する者の財産権や、印刷業者を管理し検閲する支配者の権利などを含む、古くから歴史を通して認められてきた多数の権利により影響されたものである。
技術の発達に伴い、著作権の概念は、初期に定義された、書籍地図の印刷物を複写する権利から、録音映画写真ソフトウェア建築作品の様に近代産業に対し重大な影響を与えるものをカバーするようになった。近年では、デジタル化された作品のネットワークでの共有 (P2P) 等、当初の法律制定当時では予想の付かない概念が出てきている。
なお、copyright の語が最初に使用されたのは、オックスフォード英語辞典では1734年となっているが、それ以前に使用されていたかは不明である。


==著作権の先史時代==
過去より、各種作品の作者や、後援者や、所有者は、その作品の複写の伝播の制御を試みてきた。これは、広く広めたいと言う考えもあれば、逆に自分で独占したいという考えもあった。例えば、モーツァルトの後援者であるワルトシュテッテン男爵夫人は、自分のために作られた、モーツァルトの作品の演奏を許可した。一方で、ヘンデルの後援者であるジョージ1世は、水上の音楽の演奏を独占しようと保護をしていた。
その様な事例はあるものの、15世紀の中旬の西洋社会における印刷機の発明までは、文章は手で複写を行われ、これらの権利が議論となるような機会はほとんど生じなかった。これは、複写にかかるコストが高額であり、新たな書籍の作成とほぼ同じ金額がかかったためである。例えば、ローマ帝国時代においては、本の複写は、読み書きのできる奴隷により行われ、この様な能力を持つ奴隷の購入・維持は高コストであった。そのため、実際、この当時、本の取引が成立していたが、著作権や同様の制限は存在していなかった。この当時、本の販売業者は、評価の高い著者にお金を支払うこともあったが、それは最初の複写の際のみで、著者は作品に対して占有権がなく、通常は、自分の作品に対して何も払われないことが多かった〔Martial, ''The Epigrams'', Penguin, 1978, James Mitchie〕。
ローマ帝国の崩壊後、数世紀の間、ヨーロッパの文学は完全に修道院の中に限られたものになった。本の販売業者に作品を渡す手続きや、商業的に作品をどう保護するかなどのローマ時代の各種慣習は失われてしまっていた。複写自体は、オリジナルを作り出すのと同じくらいの手間とコストがかかるため、ほとんどが修道院の筆記者にゆだねられた仕事であったが、その管理が十分でないため、外部への流出も生じていた。例えば、ケン・フォレットの小説、「大聖堂」(''The Pillars of the Earth'')では、登場人物が教会と修道院にしか存在しない本を持っている女性と出会い驚愕する場面が記載されている。
この時代、印刷物の保有に関して法的、経済的制限が生じる前は、複写に対する対策として利用されたものとしてブックカースがあった。これは、作者や所蔵者により書物に記載された、呪いの言葉である。これは印刷機登場の初期まで利用された方法で、その例として、作曲家サルモネ・ロッシによる詩篇の組み合わせである ''ha- Shirim asher li-Shelomo'' につけられた注釈がある。これは1623年にヘブライ語の字体を用いて最初に印刷された音楽であり、内容を複写した人間へのラビの教義を元にしたブックカースが含まれていた。
この様な写本による複写の時代から、現代の著作権の概念が生じるために、14世紀15世紀における2つの大きな発展が存在する。1つ目として、主要なヨーロッパの都市における商業活動の拡大と非宗教的な大学の登場がある。これは、教養があり日々の情報に興味がある資本階級の創設に役立った。これは、公共の空間の出現に拍車をかけた。この公共の空間は、要求のあった本の複写を作る企業家の本業者により徐々に増加していった。2つ目としてグーテンベルクによる活版印刷の発明と、これによる印刷機の広がりがある。この印刷機は、従来の写本より短時間でかつ安価で、書籍の複製を生産することができた。

この時代においても著作物に対する争いは存在しており、その1つとして、西暦557年のモヴィーレのアボット・フィニアンと聖コルンバの間の争いがある。これは、アボットの保有している聖詩篇を聖コルンバが複写したことで発生した。複写の所有権をめぐっての争いは、クル・ドレイムーネ (Cúl Dreimhne) の戦い (クールドラマンの戦いとしても知られている) を引き起こし、その戦いで3千人もの命が失われた〔 Gantz, John and Rochester, Jack B. (2005), ''Pirates of the Digital Millennium'', Upper Saddle River: Financial Times Prentice Hall, p. 30-33; ISBN 0-13-146315-2〕。
==活版印刷の出現と著作特権の出現==

大量に書籍の複写を作成できる印刷機の出現は、文学作品の出版がお金になり、それらの作品の作成がお金になるという可能性を生じさせた。しかし、同時に多数の印刷機が同時に、制限なく様々な作品の印刷を始めるため、競合する印刷物の作成や、無許可での複写が行われるようになった。この状況は、本来の作品の作者、編集者、印刷業者の利益の減少だけでなく損失も引き起こし、更なる事業の継続を断念させるものでもあった。印刷機による複写は、これまでの筆記者や代書者が行なっていたような、時間、お金、能力が必要なものではなく、印刷機といくらかの技量があればできるものであったからである。
この当時、作家やその後援者などの代理人への権利の保護は、作品ごとに特許の請求として行われた。エリザベス・アームストロング (彼女は、1965年にゴードン・ダフ・プライズ (Gordon Duff Prize) をボドリアン図書館の管理人より受けた人物で、16世紀の、フランスと低地諸国における印刷業者の特権と著者の特権に関するエッセイを書いた) によると、「ヴェネツィア共和国1486年に、その最初の特権をある本に与えた。これはこの町の歴史、マルクス・アントニウス・コシウス・サベリカスの''Rerum venetarum ab urbe condita opus''によると珍しいケースであった〔 Armstrong, Elizabeth. ''Before Copyright: the French book-privilege system 1498-1526''. Cambridge University Press, Cambridge: 1990, p. 3〕。」「ヴェネツィアは1492年に特定の本に対して特権を与え始めた。最初は、その年の1月3日に、パドヴァ大学の教会学の教師であるペトルス・フランシスカス・デ・ラベンナに与えられた。彼は記憶力を鍛える方法を提案し、それを''Foenix77''と言う題名の本に書いた〔 Armstrong, Elizabeth. ''Before Copyright: the French book-privilege system 1498-1526(著作権以前、フランスにおける本の特権システム、1498~1526年) . Cambridge University Press, Cambridge: 1990, p. 6 〕。」
最初に著作権法を制定したのは、このイタリアのヴェネツィアであった。ヴェネツィア共和国において、フィレンツェ公爵とレオ10世教皇や他の教皇は、古典的著者の作品に特定の期間 (稀に14年を越え)、特定の印刷業者に、印刷を行う排他的特権を何度か与えた。これは印刷業者の利益を大きく守るというものではなく、どちらかと言うと公共の利益、すなわち、一部の編集者と印刷業者が文学的な投資を行うことを促すためのものだった。
イングランドにおける最初の著作権特許は1518年に与えられ、リチャード・ピンソン、王室の印刷室である、ウィリアム・カクストンの後継者に与えられた。この特許は2年間の独占を与えた。この日付は、フランスで最初の特許が与えられてから15年後のことであった。初期の著作権特許は、「独占権」(monopolies) と呼ばれ、特にエリザベス女王の治世に制定された。彼女は、塩、皮、石炭、石鹸、カード、ビール、ワインなど一般的に使用されるものに独占権を頻繁に許可した人物である。この慣習は、一部の例外を除き、1623年独占権の法律が制定されるまで続いた。その例外の例が、特許 (patent) である。1623年以降、出版社に許可されていた文字の特許は大衆に解放された。最終的に出版業の独占は1710年アン法により終了し、この法律はイギリスの植民地にも影響を及ぼし、将来のアメリカ合衆国に影響を与えた最初の著作権に関する法律であると考えられる。

イギリス以外の国においても著作権特許が使用された。ドイツにおいては、記録上明確なものとして、1501年に、''Sodalitas Rhenana Celtica'' の名の団体に対し、御前会議で、ガンダースハイムのロスヴィータの戯曲の出版物に著作権特許が与えられた。また、1512年に帝国の特権は歴史家ジョン・シュタディウスが出版する (予定の) もの全てに対して与えられた。この例では、既存の出版物のみでなく、まだ出版されていない書籍の保護のために特許が出された最初のものである。1794年に、ドイツにおける著作権の法律が、プロシアの議会で制定された。このプロシア議会はヴュルテンベルクメクレンブルクを除いて承認されていたため、この法律の下で、全てのドイツの著者とフランクフルトとライプツィヒにおけるブックフェアーに参加している出版社により紹介された外国の著者の作品は、ドイツの国内全体で、無許可の再版に対して保護されることになった。このベルリンでの法律の制定は、国際的な著作権の最初の一歩であると考えることができる。少なくとも1815年まで、国家間の法律の条文の施行は、難しいことがわかっていた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「著作権の歴史」の詳細全文を読む




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