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第十青函丸 : ミニ英和和英辞書
第十青函丸[だい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [だい]
 (n,pref) ordinal
: [とお]
  1. (num) 10 2. ten 
: [あお]
 (n) 1. blue 2. green 3. green light
: [まる]
 【名詞】 1. (1) circle 2. (2) full (month) 3. (3) perfection 4. purity 5. (4) suffix for ship names 

第十青函丸 ( リダイレクト:第五青函丸#第十青函丸 ) : ウィキペディア日本語版
第五青函丸[だいごせいかんまる]
第五青函丸(だいごせいかんまる)は、運輸通信省青函航路鉄道連絡船車両渡船であった。
第四青函丸を原型として簡易化したW型戦時標準船(第五青函丸型)で、第五~第十二青函丸の8隻があった。
ここでは第五青函丸型について記述する。
== W型戦時標準船建造までの経緯 ==
1937年(昭和12年)の日中戦争勃発による船腹不足は、海運貨物の鉄道への転移を促し、青函間の貨物輸送量は、1936年 (昭和11年)の110万トンから1940年(昭和15年)の213万トンへと倍増した〔青函連絡船史p237 国鉄青函船舶鉄道管理局1970〕。しかし、この間の車両渡船の増強は、1939年(昭和14年)11月就航の第三青函丸1隻にすぎず、1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開戦により、輸送需要は一層増加し、そのうえ、1941年(昭和16年)11月20日には、浮遊機雷の津軽海峡への流入があり、以後半年間は12往復中、夜間便5往復の休航を余儀なくされ、滞貨の山ができてしまった〔北海道鉄道百年史(中巻)p205~207 国鉄北海道総局1980〕。
このため1941年(昭和16年)12月8日からは、貨物船として元関釜連絡船新羅丸の助勤を受け〔1942年2月28日まで、その後も断続的に青函航路に就航した:青函連絡船史巻末附表p5 国鉄青函船舶鉄道管理局1970〕、1942年(昭和17年)2月15日からは、機帆船による貨物輸送を行って滞貨解消に努めた〔。しかし、戦時下、北海道炭の京浜工業地帯への主要輸送ルートとなる室蘭本線函館本線東北本線常磐線とを繋ぐ青函航路が、このような姑息的手段で、その使命を全うできるはずもなく、これを早急に解決するため、鉄道省1942年(昭和17年)春に、車両渡船4隻の早期建造を海軍艦政本部に要請した。 
鉄道も、当時このルートの大部分は単線で、線路容量増大のため、多くの信号場が建設中で、複線化工事を急いでいた箇所もあった。青函航路においても、函館港では1941年(昭和16年)4月から、青森港では 1940年(昭和15年)11月から、車両渡船用岸壁増設工事が進められており、函館港有川埠頭の函館第3第4岸壁〔開設当時の呼称は有川第1第2岸壁:古川達郎 鉄道連絡船細見p67 JTBパブリッシング2008〕が1944年(昭和19年)1月3日と11月17日から使用開始され、青森第3岸壁は1944年(昭和19年)5月1日から昼間のみ使用開始(7月20日より昼夜使用)された〔青函連絡船50年史p230 国鉄青函船舶鉄道管理局1957〕。更に、有川埠頭では引き続き函館第4岸壁の裏側に右舷着けの第5岸壁が、青森側でも1943年(昭和18年)12月からは夏泊半島東側の小湊に突堤の両側使用となる2岸壁の建設工事が進められた〔青函連絡船50年史p27 国鉄青函船舶鉄道管理局1957〕〔函館第5岸壁は本岸壁完成するも船尾部未完成で終戦、工事休止。小湊岸壁は戦後工事再開し1948年10月10日には左舷着け岸壁ほぼ完成し第六青函丸による可動橋接合試験まで行われたが以後工事見合わせとなり、1949年7月15日桟橋業務中止:青函連絡船史p326 p329 巻末年表p8 国鉄青函船舶鉄道管理局1970〕。
一方、艦艇建造で繁忙化した民間造船所における、商船建造の調整を図る目的で、海軍艦政本部1942年(昭和17年)2月から、海軍管理工場〔国家総動員法に基づいて海軍が管理した工場。最終的に全ての造船所が指定された:http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00205544&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1〕で施工する、長さ50m以上の鋼船の建造修繕監督権を掌握し、1942年(昭和17年)4月からは、商船の大量建造のため、艦政本部が選定した10種類の戦時標準船以外の建造は、許可されないことになった。
このため、 鉄道省から、ちょうどこの時期に出された上記の青函航路向け車両渡船4隻の建造要請に対し、艦政本部は、上記の10種類の戦時標準船に該当しないうえ、速力15.5ノットも出せるのに特定の航路にしか使えず、船の大きさの割に積載能力の小さい車両渡船の建造は論外、小型機帆船を多数建造して充当すべき、としてこれを却下した〔青木栄一 青函連絡船の今昔(前) 鉄道ピクトリアル13巻6号p29 1963〕〔古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p106 成山堂書店1988〕。これに対し、鉄道省は、1,900総トンで速力10ノットの一般型貨物船のD型戦時標準船就航と車両渡船就航との比較検討を行い、片道数時間以内の鉄道連絡船航路における、車両渡船の圧倒的な荷役時間の短さと、それによる、船と岸壁の稼働率の高さを示して、貨車航送の優位性を艦政本部に訴えたが、受け入れられず、しばし膠着状態となった。
しかし、1942年(昭和17年)6月のミッドウェイ海戦敗北以後は、アメリカ軍の攻撃による商船の喪失が急増し、海運輸送力は更にひっ迫、従来からその多くを海運に頼っていた国内炭輸送は危機的状況に陥った。ここに至って、ようやく鉄道省の説得工作が功を奏したのか、政府は1942年(昭和17年)10月の閣議で、“石炭など重要物資の海上輸送を陸上輸送に転移させる。北海道炭輸送については、青函間貨車航送力を最大限度に活用するほか、現に建造計画中の貨車航送船4隻を急速に竣工させる。”と決定した〔http://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00419.php 戦時陸運ノ非常体制確立ニ関スル件 昭和17年10月6日閣議決定1942〕。
この4隻には、当時建造中の第四青函丸も含まれ、1942年(昭和17年)12月に、ようやくこの第四青函丸の建造続行と、第四青函丸を徹底的に簡易化した車両渡船1隻(第五青函丸)の追加建造が正式に承認された。これがW型戦時標準船の始まりであった。「W」はWAGON貨車の意味であった。しかし、残り2隻の建造承認は翌年3月まで持ち越された。
以下がW型戦時標準船の建造決定時期で、第十一青函丸と第十二青函丸は建造途上で終戦を迎え、第十三青函丸、第十四青函丸、第十五青函丸は着工すらされなかった。
*1942年(昭和17年)12月:第四青函丸の建造続行とW型戦時標準船1隻(第五青函丸)の建造決定
*1943年(昭和18年)3月:W型戦時標準船2隻(第六青函丸、第七青函丸)の建造決定
*1944年(昭和19年)3月:W型戦時標準船3隻(第八青函丸、第九青函丸、第十青函丸)の建造決定
*1944年(昭和19年)4月:W型戦時標準船4隻(第十一青函丸、第十二青函丸、第十三青函丸、第十四青函丸)の建造決定
*1944年(昭和19年)6月:W型戦時標準船1隻(第十五青函丸)の建造決定
更に、戦後W型戦時標準船の基本設計を引き継いで〔青函連絡船史p160 国鉄青函船舶鉄道管理局1970〕、1948年(昭和23年)に 北見丸日高丸の2隻が建造されたが、国鉄部内では当時就航中のW型戦時標準船にこれら2隻も加え「青函型船」〔青函鉄道管理局報(号外)(連絡船型の呼称)1951.8.29.〕または「W型船」と呼んで分類していた〔古川達郎 連絡船ドックp89 船舶技術協会1966〕。
*1946年(昭和21年)7月:W型戦時標準船(平時型)2隻(北見丸、日高丸)の建造決定

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「第五青函丸」の詳細全文を読む




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