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第二次コリンスの戦い : ミニ英和和英辞書
第二次コリンスの戦い[だいにじこりんすのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [だい]
 (n,pref) ordinal
第二 : [だいに]
 (n) second
第二次 : [だいにじ]
 (n) the second ..
: [に]
  1. (num) two 
二次 : [にじ]
 【名詞】 1. secondary 2. subordinate 
: [つぎ]
  1. (n,adj-no) (1) next 2. following 3. subsequent 4. (2) stage 5. station 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

第二次コリンスの戦い : ウィキペディア日本語版
第二次コリンスの戦い[だいにじこりんすのたたかい]

第二次コリンスの戦い(だいにじコリンスのたたかい、英:Second Battle of Corinth、単に「コリンスの戦い」と呼ばれるのが通常だが、同じ年早くに起こったコリンスの包囲戦と区別するために第二次をつける)は、南北戦争初期の1862年10月3日10月4日に、ミシシッピ州コリンスで行われた戦いである。イウカ・コリンス方面作戦の2番目の戦闘であり、北軍ウィリアム・ローズクランズ少将が、この時は南軍アール・ヴァン・ドーン少将を破った。
== 背景 ==
南軍の将軍ブラクストン・ブラッグ1862年9月にテネシー州から北のケンタッキー州に入ったので、北軍のドン・カルロス・ビューエル少将はそのオハイオ軍を率いてテネシー州ナッシュビルから追跡を始めた。南軍はビューエル軍がグラント少将のテネシー軍で補強されるのを防ぐ必要があった。その年の夏、コリンスの包囲戦以降、グラント軍はテネシー州西部とミシシッピ州北部で供給線を守っていた。9月19日イウカの戦いでは、スターリング・プライス少将の西部軍がグラントが全体指揮を執る北軍、戦術的にはローズクランズが指揮を執ったミシシッピ軍に敗れた。プライスはその小規模軍をアール・ヴァン・ドーン少将のテネシー軍と融合させグラントの通信線を妨害しようと望んだが、グラントとローズクランズが先手を打ち、プライスをイウカから撤退させた。
イウカの後で、グラントはその作戦本部を統括するコリンスとメンフィスを連絡する中間であるテネシー州ジャクソンに置いた。ローズクランズはコリンスに戻った。エドワード・オード少将はその指揮するテネシー軍3個師団が偶々イウカの戦いに参戦できなかったが、コリンスの北西にあるボリバーに移動し、スティーブン・A・ハールバット少将の部隊と合流した。かくしてグラント軍はボリバーに12,000名、コリンスにローズクランズの23,000名、メンフィスにウィリアム・シャーマンの7,000名およびジャクソンに全体の予備軍として6,000名が直ぐ近い範囲に配置された。
プライス軍はリプリーに行軍して9月28日にヴァン・ドーン軍と合流した。ヴァン・ドーンが上級士官だったので合流軍約22,000名の指揮を執った。この軍隊はメンフィス・アンド・チャールストン鉄道を使って10月1日にテネシー州ポカホンタスに移動した。この地点からは多くの行動選択肢があり、グラントはその意図が掴めなかった。ヴァン・ドーンが10月2日にチェワラで野営したことで、グラントはその目標がコリンスにあることを確信するようになった。南軍は予期せぬ方向からコリンスを奪取し、ローズクランズ軍を援軍の無い孤立した状態にし、続いて中部テネシー州を席捲することを期待していた。グラントはローズクランズに攻撃に備えるよう伝言を送り、同時にハールバットには敵の動きに気を付け、都合の良い機会があれば側面を衝くよう指示した。しかし、ローズクランズは既に準備を終えていた。
コリンスの北と東の側面には町から約2マイル (3 km)に塹壕線があり、北西のチェワラ道路から南のモービル・アンド・オハイオ鉄道まで伸びていて、これは5月に町を明け渡す前に南軍のP・G・T・ボーリガード将軍が築かせたものだった。これらの塹壕線はローズクランズの23,000名で守るにはあまりにも広がりすぎていたので、グラントの承認を得て、町や2つの鉄道線の結節点近くにある弾薬庫を守ることに主眼を置いた防衛線に修正した。砦の内側の防衛線は町により近く、ハレック線と呼ばれ、実情に近いものになった。多くの恐ろしい名前をつけた砲台、強固な土盛り防壁上に配置された大砲が内側防衛線の一部だった。ロビネット、ウィリアムズ、フィリップス、タンラスおよびロスロップの各砲台がカレッジヒルと呼ばれる地域にあった。これらは胸壁で繋がれ、9月の最後の4日間で強化され、ロビネット砲台を中心として近くの樹木が倒され逆茂木を造っていた。ローズクランズの作戦は古い南軍の塹壕線で予想される南軍の前進を散兵戦で凌ぎ、続いて町の中心からは約1マイル (1.6 km)にあるハレック線で南軍の主力と北軍の主力が対戦するというものだった。ローズクランズの最後の抵抗点はカレッジヒルの砲台周辺ということになっていた。ローズクランズの兵士達は3日分の食糧と銃弾100発を与えられた。ヴァン・ドーンは、テネシー軍から援軍2個師団を手堅く呼びつけた敵の勢力に気付いておらず、この備えを施した陣地に攻撃する難しさに付いても分かっていなかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「第二次コリンスの戦い」の詳細全文を読む




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