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P・G・T・ボーリガード : ミニ英和和英辞書
P・G・T・ボーリガード[ぴーじーてぃーぼーりがーど]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

P・G・T・ボーリガード : ウィキペディア日本語版
P・G・T・ボーリガード[ぴーじーてぃーぼーりがーど]

ピエール・グスターヴ・トゥータン・ボーリガード(英:Pierre Gustave Toutant Beauregard、1818年5月28日-1893年2月20日)は、アメリカ合衆国ルイジアナ州生まれで南北戦争では南軍の将軍である。「灰色のナポレオン」として知られ、著作家、公務員、政治家および発明家でもある。

ボーリガードは南軍結成当初から傑出した将軍であった。1861年4月12日サムター要塞の戦いではチャールストン防衛軍を指揮し、3ヶ月後にバージニア州マナサスの近くで行われた第一次ブルランの戦いでは勝者となった。
西部戦線では、テネシー州におけるシャイローの戦いミシシッピ州北部でのコリンスの包囲戦を含み南軍を指揮した。疑いもなく偉大な功績は1864年6月に圧倒的に優勢な北軍の攻撃からピーターズバーグ市を、さらにその結果としてアメリカ連合国の首都リッチモンド市を救ったことである。しかし、南軍の戦略におけるボーリガードの影響力は、大統領のジェファーソン・デイヴィスおよび他の上級将軍や役人との関係悪化により低下した。今日、通常はP・G・T・ボーリガードと称されるが、戦争中はファーストネームを滅多に使うことはなく、書簡には「G・T・ボーリガード」と署名した。
== 初期の経歴 ==
ボーリガードはニューオーリンズ郊外のセントバーナード郡にある「コントレラス」プランテーションで、白人クレオールの家庭に生まれた。ニューオーリンズの学校に通い、その後ニューヨーク市の「フランス語学校」に行った。ニューヨーク州ウェストポイント陸軍士官学校で訓練を受けた。この時の教官ロバート・アンダーソンは南北戦争が始まったときのサムター要塞指揮官であった。皮肉なことにアンダーソンはサムター要塞でボーリガードに降伏することになった。ボーリガードの姓は元々トゥータン-ボーリガードであったが、自分でハイフンを落としてトゥータンを第2のミドルネームとして扱い、級友に合わせた。またその頃からファーストネームも滅多に使うことがなく、G・T・ボーリガードを好んだ〔Woodworth, p. 72.〕。1838年に同期では2位の成績で卒業し〔Eicher, p. 123.〕、砲兵としても工兵としても成績優秀だった。軍隊での友人の多くに使われたニックネームは「小さなクレオール」であった(他にも「ボリー」、「小さなフランス人」、「フェリックス」および「小さなナポレオン」があった)。

米墨戦争のとき、ウィンフィールド・スコット将軍の下で工兵として従軍した。コントレラスの戦いチュルブスコの戦いで名誉大尉となり、さらに肩と太腿を負傷したチャプルテペクの戦いで少佐に昇進した。
1841年プラークミンズ郡の砂糖農園主ジュール・ビレーレの娘、マリー・ロール・ビレーレと結婚した。マリーはルイジアナ州の第2代知事ジャック・ビレールの父系の孫娘であった。夫妻には3人の子供、ルネ、アンリ、およびローレが生まれた。マリーは1850年に死んだ。10年後に、セントジェームズ郡出身の砂糖農園主アンドレ・デスロンドの娘、キャロライン・デスロンドと再婚した。キャロラインはルイジアナ州選出のアメリカ合衆国上院議員で後にアメリカ連合国外交官となったジョン・スライデルの義妹でもあった。
生まれ故郷の町で短期間政界に入り、1858年のニューオーリンズ市長選挙では僅差で敗れた。1858年から1861年までニューオーリンズの排水路を担当する主任技師になり、そこで連邦税関庁舎の建設を指導した。その後ウェストポイントに戻って教官を務め、1861年1月には士官学校の校長になったが、ルイジアナ州がアメリカ合衆国から脱退したので、わずか5日間で辞任した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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