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シャイローの戦い : ミニ英和和英辞書
シャイローの戦い[しゃいろーのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

シャイローの戦い : ウィキペディア日本語版
シャイローの戦い[しゃいろーのたたかい]

シャイローの戦い(シャイローのたたかい、英:Battle of Shiloh、またはBattle of Pittsburg Landing)は、南北戦争初期の1862年4月6日から7日に、西部戦線テネシー州南西部で行われた大きな戦いである。アルバート・ジョンストン将軍とP・G・T・ボーリガード将軍が指揮する南軍が、ユリシーズ・グラント少将の指揮する北軍に急襲を掛け、敗北寸前まで追い込んだ。ちなみにシャイローとは、ヘブライ語で「平和な土地」という意味である。
戦闘の1日目、南軍はグラントのテネシー軍ドン・カルロス・ビューエル少将のオハイオ軍と合流する前に叩いてしまうことを期待して、テネシー川から北軍の守備隊を遠ざけ西のオウル・クリークの沼地に追い遣ろうという意図で攻撃を仕掛けた。南軍の前線が激しい戦闘の間に混乱し、その間にグラントの兵士は北東のピッツバーグ・ランディングの方向に後退した。「ホーネッツネスト」と渾名されるやや窪んだ道路に陣取ったベンジャミン・M・プレンティスとW・H・L・ウォレス各准将の師団が防御し、北軍が数多い大砲列の保護の下に安定を取り戻す貴重な時間を得た。ジョンストン将軍は1日目の戦闘中に戦死し、副司令だったボーリガードがその夜に北軍最後の陣地に対する攻撃を決断した。
その夜にビューエル将軍の援軍が到着し翌朝には流れが変わった。ビューエルとグラントは全線にわたる反撃に転じた。この時までのアメリカ史で最も流血の多い戦闘の後で南軍は退却を強いられ、ミシシッピ州北部への北軍侵入を食い止めるという望みが絶たれた。
== 背景と対戦した戦力 ==
南軍は1862年2月にヘンリー砦ドネルソン砦を失った後で、アルバート・ジョンストン将軍はその軍を再編するためにテネシー州西部、ミシシッピ州北部およびアラバマ州に退いた。3月初め、これに反応した北軍の西部戦線司令官ヘンリー・ハレック少将は、グラントとその西テネシー軍(この戦闘後間もなく、そのより有名な名前であるテネシー軍と呼ばれる)にテネシー川を上って侵略するよう命じた(ハレックはグラントに対する職業的また個人的な敵意のために、当初グラントの部下であるチャールズ・F・スミス少将にその遠征を率いさせ、グラントはヘンリー砦で待機しているはずだった。エイブラハム・リンカーン大統領が干渉し、またスミスが負傷したので、グラントが全軍指揮に戻った)〔Nevin, p. 104; Woodworth, ''Nothing but Victory'', pp. 128-?31, 141-42; Smith, pp. 173-79; Cunningham, pp. 72-74.〕。グラントがハレックから受けた命令では、ナッシュビルから進軍してくるビューエルのオハイオ軍と合流し、南に進んで南軍の生命線であるミシシッピ川流域、テネシー州メンフィスおよびバージニア州リッチモンドを結ぶメンフィス・アンド・チャールストン鉄道を掴むための協働攻撃を掛けるというものだった〔Smith, p. 179; Woodworth, ''Nothing but Victory'', p. 136.〕。

画像:Ulysses grant 001.jpg|
Maj. Gen.
ユリシーズ・グラント、北軍

画像:Don Carlos Buell.jpg|
Maj. Gen.
ドン・カルロス・ビューエル、北軍

画像:ASJohnston.jpg|
Gen.
アルバート・ジョンストン、南軍

画像:Pgt_beauregard.jpg|
Gen.
P・G・T・ボーリガード、南軍


グラント軍は6個師団からなる総勢48,894名だった。師団指揮官はジョン・A・マクラーナンドルー・ウォーレス各少将、W・H・L・ウォレス、スティーブン・A・ハールバット、ウィリアム・シャーマンおよびベンジャミン・M・プレンティス各准将だった〔Eicher, p. 222.〕。師団のうち5個師団はテネシー川西の尾根に宿営した。グラントはこの戦争の間、敵の作戦よりも自分の作戦に強い関心があるという評判が出来ていた〔Smith, p. 185; Eicher, p. 223.〕。ピッツバーグ・ランディングにあるその宿営は、そのような関心の欠如を最も象徴するものを示していた。その部隊は野営の形に、多くはシャイロー(ヘブライ語で「平和の場所」の意味)〔Daniel, p. 131. この教会は南部メソジスト監督教会によって1854年に建てられた。「シャイロー」(ヘブライ語でシロ)という名前は旧約聖書のサムエル記上から来ており、ヘブライ人が毎年巡礼する宗教的中心を表した。大まかに「平和」と訳されたが、戦闘後、ニューヨーク州出身のユダヤ人兵士がそれを「解放」と訳した。〕という木製の小さな教会の周りで拡がり、ビューエル軍を待ちながら多くの未熟な兵士に訓練を施して時を過ごし、塹壕やその他防御のための手段に気付いてもいない様子だった。グラントはその自叙伝で、塹壕に考えが及ばないことに対する批判に答えて、「この他に、私、士官および兵士の軍隊はピック、ショベルおよび斧で経験するよりも多くの訓練・演習を必要とした。...これら全ての状況の下で私は演習や訓練が防塞化の作業よりも兵士に有益であると結論づけた。〔Grant, pp. 211-12.〕」ルー・ウォーレスの師団は5マイル (8 km)下流(北方)のクランプズ・ランディングにおり、南軍が川向きの砲台を設置することを妨害し、ベスル駅で鉄道線を攻撃することを意図した配置だった〔Daniel, p. 139; Nevin, p. 105.〕。
ビューエル軍の総勢は17,918名であり戦闘の夜にはシャイローへの長い行程にあった。その4個師団はアレクサンダー・マクック、ウィリアム・"ブル"・ネルソン、トマス・L・クリッテンデンおよびトマス・J・ウッド各准将が率いた〔Eicher, pp. 222, 230.〕。
南軍側では、ジョンストンがその新しく結成した軍隊をミシシッピ軍と名付けた〔戦闘中、通信文には定冠詞付きのミシシッピ(川の名前)軍とされていた。これは北軍のみが川の名前を軍隊の名前とした一般的な規則と逸脱していた。例えばNPS website を参照。またこれは時には西部の軍隊を指すときに使われた。この軍隊は1862年3月5日に始動し、11月にはブラクストン・ブラッグによってテネシー軍と改名された。:en:Army of Mississippiの項を参照。〕。ジョンストンはグラントの陣地から約20マイル (30 km)南西のミシシッピ州コリンス周辺におよそ55,000名の部隊を集結させた。この中で、44,699名〔が4月3日にコリンスを発ち、ビューエル軍が参入する前にグラント軍を急襲することを期待していた。この軍隊は大きく4個軍団に編成された。指揮官は以下の通りだった。
* レオニダス・ポーク少将指揮、チャールズ・クラークとベンジャミン・F・チーザム各准将の師団
* ブラクストン・ブラッグ少将指揮、ダニエル・ラッグルズとジョーンズ・M・ウィザーズ各准将の師団
* ウィリアム・J・ハーディ少将指揮、トマス・C・ヒンドマン、パトリック・クリバーンおよびスターリング・A・M・ウッド各准将の師団
* ジョン・ブレッキンリッジ准将指揮、予備隊、ロバート・トラビューとウィンフィールド・S・ストラザム各大佐とジョン・S・ボウェン准将の旅団、および付設騎兵隊〔Eicher, p. 223.〕
戦闘の前夜、グラント軍とジョンストン軍はほぼ拮抗する勢力だったが、南軍は散弾銃、古い型の滑腔マスケット銃、さらにはヤリまであるという古い武器で装備しているに過ぎなかった。彼らはほとんど戦闘の経験も無いままに戦場に到着した。ペンサコーラモービルから来たブラクストン・ブラッグの兵士が最も訓練されていた。グラント軍にはドネルソン砦で戦闘を経験した歩兵連隊が62個のうち32個あった。その砲兵隊の半分や騎兵隊の大半は戦闘の古参兵だった〔Cunningham, pp. 93, 98-101, 120.〕。
ジョンストン軍の副司令はボーリガードだった。ボーリガードはグラント軍を攻撃しないよう奨めた。行軍の音や南軍兵が2日続きの雨の後でライフルを試射する音が、急襲の価値を下げるのではないかと心配した。ジョンストンはボーリガードの忠告を拒み、「敵が100万でも攻撃」すると伝えた。ボーリガードの根拠のある心配にも拘わらず、北軍は南軍が近付いている音を聞き取ることが無く、3マイル (5 km)離れた敵の宿営地の動きを何の気もなく気付かないままだった〔Daniel, pp. 127-28.〕。
ジョンストンの作戦はグラント軍の左翼を襲い、北軍の陸軍とテネシー川の砲艦の支援(さらに退却路)とを分離し、西のスネーク・クリークやオウル・クリークの沼地に追い込んで、そこで全滅させるというものだった。ジョンストンのグラントに対する攻撃は当初4月4日に予定されていたが、48時間遅れた。その結果、再度ボーリガードは急襲の効果が失われるのを怖れ、コリンスへの後退を奨めた。しかし、ジョンストンはこの時も撤退を考えることを拒んだ〔Daniel, pp. 119, 121-23; Cunningham, pp. 128-29, 137-40; Woodworth, ''Nothing but Victory'', p. 108; Eicher, p. 223.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「シャイローの戦い」の詳細全文を読む




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