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ドネルソン砦の戦い : ミニ英和和英辞書
ドネルソン砦の戦い[どねるそんとりでのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [とりで]
 (n) fortress
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

ドネルソン砦の戦い : ウィキペディア日本語版
ドネルソン砦の戦い[どねるそんとりでのたたかい]

ドネルソン砦の戦い(ドネルソンとりでのたたかい、英:Battle of Fort Donelson)は、南北戦争初期の1862年2月12日から16日に、西部戦線テネシー州西部で行われた戦いである。北軍によるこの砦の占領によって、カンバーランド川は南部への進入経路として開かれ、ユリシーズ・グラント准将は少将に昇進すると共に、それまで目立たずほとんど実績のない者であったのが、「無条件降伏」のグラントと渾名されるようになった。
この戦闘は2月6日ヘンリー砦の占領に続いて起こった。2月12日から13日にかけて、グラントはドネルソン砦に向けて陸路を2マイル (3 km)進み、幾度か小さな威力偵察を行った。2月14日、アメリカ海軍アンドリュー・H・フット将官が指揮する砲艦隊が艦上の大砲で砦の勢力を減じようとしたが、ドネルソン砦の川に向けた大砲によって大きな損失を蒙り、後退を強いられた。
2月15日、南軍の指揮官ジョン・B・フロイド准将は、砦が囲まれている状況で、グラント軍に対して急襲を掛け、脱出路を開こうとした。攻撃の開始時点では戦場から離れていたグラントは、戦場に到着して兵士を集合させ反撃に移った。フロイドの試みは部分的には成功したものの、怖じ気づいて兵士達を塹壕の中に呼び戻した。
2月16日の朝、フロイドとその副官ギデオン・J・ピロー准将は二人とも、指揮権をサイモン・B・バックナー准将に渡し、バックナーがグラントからの無条件降伏を受け入れた。
== 背景 ==
ドネルソン砦の戦闘は2月6日のヘンリー砦の戦いに直ぐ後に起こった。グラントとアメリカ海軍フットによるヘンリー砦占領の結果、テネシー州はその後の北軍侵攻の経路となった。ヘンリー砦にいた約2,500名の南軍守備隊は降伏前に脱出し、東のドネルソン砦まで12マイル (19 km)を移動した〔Cooling, pp. 12-13; Esposito, text for map 26.〕。
南軍はこの時幾らかの難しい選択に直面していた。グラント軍はこの時、南軍のアルバート・ジョンストン将軍の管轄する2つの軍隊(ケンタッキー州コロンバスにいるP・G・T・ボーリガードの12,000名と同じくケンタッキー州ボウリング・グリーンにいるウィリアム・J・ハーディの22,000名)の間にいた。ヘンリー砦はテネシー州を守る南軍前線の中央に大きく突出した場所にあり、その南にある鉄道が遮断されて、直面する北軍の大部隊に対抗して援軍を向かわせるために必要な横の動きが制限されていた。近くのドネルソン砦にはわずか約5,000名の勢力しか無かった。北軍はコロンバスを攻撃する可能性があった。またドネルソン砦を攻撃し、それによってナッシュビルを脅かす可能性もあった。すなわち、グラントとドン・カルロス・ビューエルルイビルにいた45,000名)が、グラントは後からビューエルは前からジョンストン軍を直接攻撃する怖れがあった。ジョンストンは北軍の砲艦がヘンリー砦を容易に打ち破ったことを理解した(テネシー川の水嵩が上がり砦を水浸しにして重要な役割を果たしたことまでは分かっていなかった)。しかし、実のところ川からの攻撃は単に陽動作戦ではないかと思い、グラント軍よりもビューエル軍からの脅威を心配していた〔Esposito, map 25; Gott, pp. 65, 122; Nevin, p. 79.〕。
ジョンストンは、南軍のテネシー州を守るという戦略が見せかけのものであることを暗に認め、防衛線の大半にわたって主導権を放棄する一連の行動を決断した。2月7日、ボウリング・グリーンのコビントンホテルで開かれた作戦会議で、コロンバスにいるボーリガード軍を撤退させ、ボウリング・グリーンも明け渡して、カンバーランド川の南ナッシュビルに移動することで、ケンタッキー州西部を放棄する決断をした。ドネルソン砦の防衛可能性については疑念があったものの、ボーリガードの忠告を容れて、12,000名の補強に同意した。もしそこで敗れれば、テネシー州中部を失うことは避けられず、つまりはナッシュビルという軍需物資の製造と貯蔵のための重要な町も失うことを意味していることを理解していた〔Nevin, p. 81; Cooling, p. 18; Gott, pp. 121-23.〕。
ジョンストンはドネルソン砦の指揮を、第一次ブルランの戦いで巧みに功績を挙げたボーリガードに任せたかったが、ボーリガードは喉の病気のために辞退した。その代役として責任はジョン・B・フロイド准将に回った。フロイドはバージニア州西部でロバート・E・リーの下にいて任務をうまく果たせず、西部戦線に到着したばかりだった。以前はジェームズ・ブキャナン政権の陸軍長官を務め、汚職と脱退活動で北部ではお尋ね者になっていた。その経歴は政治家であり軍人では無かったが、カンバーランドでは上級の准将だった〔Gott, p. 67; Cooling, pp. 18, 23.〕。
北軍側では、ミズーリ方面軍の指揮官としてグラントの上官だったヘンリー・ハレックも危惧の念を抱いていた。グラントがヘンリー砦を占領することを承認したが、続けてドネルソン砦を攻めることは危険のあることだと感じていた。またグラントのそれまでの成功にも拘わらず、グラントのことを向こう見ずと考え、その部下をほとんど信用していなかった。ハレック自身のライバルであるビューエルを説得して、援軍を得る手段としてビューエル軍の参戦を促そうとしたが、ジョンストンがビューエルに大きな注意を払っていたにも拘わらず、グラントが攻撃的なのと同じくらいビューエルは受動的だった。グラントは、その上官がグラントの解任を考えているなどと疑うことは無かったが、この方面作戦を通じて、遅れや敗北の場合にハレックが怖じ気づいて作戦を中止する可能性があることには十分に気付いていた。
2月6日、グラントはハレックに宛てて電報を打った。「ヘンリー砦は我々のものである。...8日にはドネルソン砦を奪取して破壊し、ヘンリー砦に戻る。〔McPherson, p. 397.〕」この自らに課した最終行は3つの点で楽観的過ぎた。1つはドネルソン砦まで12マイルの惨憺たる道路状態、2つめは溢れてくる洪水の中で物資を運ぶために兵士を使う必要があったこと(2月8日までにヘンリー砦は完全に水に浸かった)〔Gott, p. 105.〕、最後はヘンリー砦での砲撃戦でフットの西部船隊が蒙った損傷だった。もしグラントが素早く移動することができたとすれば、その日の内にドネルソン砦を落としていたかもしれない。2月11日の早朝、グラントは作戦会議を開き、幾つかを保留したマクラーナンドを除く全ての将軍がドネルソン砦を攻撃するグラントの作戦を支持した。この作戦会議は南北戦争の間にグラントが開いたものでは最後となった〔Cooling, p. 20; Gott, p. 136.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ドネルソン砦の戦い」の詳細全文を読む




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