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ジェームズ・ブキャナン : ミニ英和和英辞書
ジェームズ・ブキャナン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジェームズ・ブキャナン : ウィキペディア日本語版
ジェームズ・ブキャナン[ちょうおん]

ジェームズ・ブキャナン・ジュニア(, 1791年4月23日 - 1868年6月1日)は、アメリカ合衆国の第15代大統領である。18世紀生まれの最後の大統領であり、結婚しなかった唯一の大統領である。また、ペンシルベニア州から選出された唯一の大統領でもある。
ブキャナンは人気があり経験豊富な州の政治家で、非常に成功した弁護士であった〔Thomas Bailey, Lizabeth Chen and David Kennedy. The American Pageant. 13th Edition. Houghton Mifflin Company. New York: 2006, p. 415〕。彼はペンシルベニア州選出の下院議員となり、後には上院議員に転身、アンドリュー・ジャクソン内閣ではロシア担当大臣を務めた。また、ポーク内閣では国務長官も務めている。最高裁長官の指名を断った後、ピアース内閣ではイギリス担当大臣を務め、オステンド・マニフェストの作成を手助けした。
1844年1848年1852年の大統領選において民主党の候補指名に失敗したが、「オールド・バック ''Old Buck''」は1856年の大統領選で民主党の大統領候補に指名された。ピアース大統領の任期の大半、ブキャナンはイギリス担当大臣としてロンドンに滞在していたため、合衆国を支配した派閥政治の十字砲火の中に交わることはなかった。ブキャナンは奴隷制度問題において両派の間で妥協した態度を取ったと見なされた。選挙はジョン・フレモントミラード・フィルモアとの三つどもえの戦いとなった。大統領として彼はしばしば「''doughface''」(奴隷制度に賛成した北部自由州の議員)と呼ばれ、民主党の主導権をスティーブン・ダグラスと争った。ブキャナンは北部と南部の間の平和を維持するため努力したものの、両陣営は疎遠となり、南部諸州の合衆国からの脱退により南北戦争へと突入する。記録に寄ればブキャナンは南部諸州の脱退は不法なものであったが、それを止めるために戦争を行うのも不法であったと考えていたとされる。ブキャナンは第一に弁護士として「私は法以外の支配を全く承認しない。」という決まり文句で有名であった〔Klein (1962), p. 305〕。
彼が公職を退く時までに、世論は彼に批判的なものとなった。そして民主党は二つに分裂した。ブキャナンはかつて、アメリカ史上におけるジョージ・ワシントンの位置と同じ格付けを切望した〔Klein (1962), pp. xviii.〕。しかしながら、国が分裂と内戦へ進むのを防ぐための統率力を発揮せず、消極的な対応に終始したことにより、現在も歴史家による格付けでは決まって最悪の大統領の一人として位置づけられる。ブキャナンの伝記執筆者、フィリップ・クラインはこれらの格付けを取り入れている。「空前の怒りの感情の波が国を覆い尽くしたとき、ブキャナンはリーダーシップを引き受けた。この革命的な時代に、抑制して敵対したセクションをもったことは、本来注目に値する業績であった。彼の任期は激動の時代であったが、その弱点は南北の怒れる党派によって拡大された。彼の多くの才能は、より静かな時代においては偉大な大統領として認められるものであったかもしれないが、南北戦争という時代の大変動と、偉大なるエイブラハム・リンカーンによって霞んだものとなった〔Klein (1962), p 429〕。」
== 生い立ち ==
ジェームズ・ブキャナン・ジュニアは1791年4月23日にペンシルベニア州フランクリン郡ハリスバーグの近く、ケーブ・ギャップ丸太小屋で、裕福な商人のジェームズ・ブキャナン・シニア(1761年 - 1833年)とその妻エリザベス・シュペーア(1767年 - 1833年)の間に生まれた(現在ブキャナン生誕地州立公園として公開されている)。両親はスコットランド=アイルランド系であり、父親は1783年に北アイルランドから移住した。ブキャナンは11人兄弟の2番目で、兄弟の内の3人は幼少期に死去している。ブキャナンには6人の姉妹と4人の兄弟がいたが、1840年まで生き残ったのは1人のみであった〔〕。
1799年に一家はマーセスバーグに移り住む。マーセスバーグの家は後にジェームズ・ブキャナン・ホテルとなった〔James Buchanan Hotel website 〕。
ブキャナンは村の学校に入学し、その後ペンシルベニア州カーライルのに進学した。不品行な振る舞いで放校されそうになったが、第二のチャンスを嘆願し、その後1809年9月19日に抜群の成績で卒業した〔Klein (1962), pp. 9-12.〕。同年彼はペンシルベニア州ランカスターへ転居し法律を学び、1812年に法曹界入りした。彼は熱心な連邦党員として、当初は米英戦争に反対した。しかしながらイギリス軍がメリーランド州に侵入すると、彼は志願兵として竜騎兵部隊に加わり、ボルチモア防衛戦に参加した〔Baker (2004), p. 18.〕。
ブキャナンは生涯を通じて活発なフリーメイソンのメンバーであり、ランカスターの第43ロッジのマスターであった。また、ペンシルベニアのグランドロッジの副グランドマスターでもあった〔Klein (1962), p. 27.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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