翻訳と辞書
Words near each other
・ 秋山晶
・ 秋山智彦
・ 秋山智江
・ 秋山智美
・ 秋山書店
・ 秋山朋信
・ 秋山木工
・ 秋山木鉢
・ 秋山未来
・ 秋山未痴汚
秋山未知汚
・ 秋山村
・ 秋山桃子
・ 秋山桃花
・ 秋山樹
・ 秋山次郎
・ 秋山正子
・ 秋山正幸
・ 秋山正美
・ 秋山正重


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

秋山未知汚 : ミニ英和和英辞書
秋山未知汚[あきやま]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [あき]
  1. (n-adv) autumn 2. fall 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [ひつじ, み, いま(だ)]
 【名詞】 1. not yet 
未知 : [みち]
  1. (adj-na,n) not yet known 

秋山未知汚 ( リダイレクト:秋山道男 ) : ウィキペディア日本語版
秋山道男[あきやま みちお]
秋山 道男(あきやま みちお、1948年9月29日 - )は、日本の編集者プロデューサー、クリエィティブディレクター、装丁家俳優作詞家作曲家千葉県松戸市生まれ。スコブルコンプレックス會社・主宰。資生堂文化デザイン部編集委員。
本人いわく「都市・空間・商品・宣伝・編集・芸能・芸術・食・身体・生活・ファッションなど多領域の仕事群を『魅力づくり』として遂行」する仕事を行っている。
1960年代には「秋山未知汚」「秋山未痴汚」名義を、1970年代には「秋山ミチヲ」名義を用いていた。
==経歴・人物==
東京都立工芸高等学校デザイン科卒業。同級生に南伸坊がいた。高校を卒業して、しばらくフーテン生活を送り「原宿万引き王」と呼ばれた。
19歳ごろ、若松孝二若松プロダクションに入社。脚本、音楽、ポスター制作、助監督を担当。また、秋山未知汚名義で俳優として映画に出演。
1970年の『性賊 セックス・ジャック』では少年テロリストを演じ、大和屋竺から絶賛される。若松プロでは「オバケ」とあだ名をされていた(また、1969年の足立正生監督作品『性遊戯』では、「オバケ」という役名で出演している。この映画には、若松プロで「ガイラ」とあだ名された小水一男も「ガイラ」という役名で出演)
この時代に作曲した曲にはサンバ「ここは静かな最前線」(作詞:足立正生)があり、山下洋輔トリオの演奏により、映画『天使の恍惚』(1972年)の主題歌となった(後に渚ようこがカバーしている。)。また、作品中にギターを弾く男として出演してこの曲を演奏、主演の横山リエが歌を歌っている。
また、「状況劇場」、暗黒舞踏関係、「発見の会」など、アングラ系の人々とも知り合う。政治色の強くなった若松プロから距離を置くことを考え、「発見の会」の黒内直の依頼で、印刷会社の屋根裏に住み込み「無限會社・面白商会」と個人で名乗り、アングラ関係の印刷物・着ぐるみの中身担当・引越しの手伝いなどの便利屋業を行う。
一方、放送作家としても活動。テレビ番組『ベルトクイズQ&Q』のクイズを担当。また、「クイズを歌で出せば面白いのでは」と、担当ディレクターの河内紀と探し歩いて、1972年荒戸源次郎が創設していた劇団「天象儀館」の女性コーラス達を起用する。
そのことが切っ掛けで、秋山も「天象儀館」に入団。他のメンバーには上杉清文櫻木徹郎らがいた。美術、デザイン、俳優をこなす。1973年には、天象儀館のメンバーの出演による、大和屋竺監督による映画『愛欲の罠(別名:朝日のようにさわやかに)』が製作され、腹話術師の殺し屋役を演じる。
このころの生計は、筋子、数の子、タラコなどを路上で売る、テキヤで立てていた。また、糸井重里ペーター佐藤らと出会う。
1976年から荒俣宏監修で月刊ペン社から刊行された「妖精文庫」等、本の装丁も行う。また、伊集院彩名義で雑誌『JUNE』の表紙デザインも行った。
また、ペーター佐藤の紹介で、カネボウ化粧品の広報誌「BELL」の編集長から、「産休を取るから編集長になってくれ」と依頼され、突如、編集長となる。雑誌はすぐにつぶれたが、そこで編集についてのノウハウを学ぶ。
1978年、30歳で事務所「秋山計画」を設立。のちに「スコブルコンプレックス」に改名。なお、「スコブル」は宮武外骨が刊行していた雑誌からとった名前である。
1979年 - 1980年には、西友の広報誌を編集長として、「こども向けのパンク雑誌」とのアイディアで『熱中なんでもブック』(のちに『青春評判ブック』)と題して刊行。スタッフに林真理子中野翠、松川邦生〔のちに主婦の友社で、林真理子の『ルンルンを買っておうちに帰ろう』や、渡辺和博の『金魂巻』の編集を担当。〕等がいた。
1980年には青春出版社の新雑誌『BIG tomorrow』の創刊時のブレインとして参加。「『困っているサラリーマン』を救う、ダサイ雑誌がいい」と助言して、ヒット雑誌となる。
1983年には無印良品の青山店の開店を手伝ったことがきっかけで、無印良品全般のプロデュースを行い、人気商品とする。
また、同じ1983年からチェッカーズの総合プロデュースを行い、髪型、ファッションなどのバンド・コンセプト、タレント本の企画編集、映画のシノプシスなどを考え、人気バンドに育てあげた。この頃は「すべての自分の仕事は『編集』である」と、「スーパー・エディター」を名乗っていた〔のち、安原顯も「スーパーエディター」と名乗るようになると、秋山はこの自称を止めた。〕。
その他にも、小泉今日子日本新党六本木ヒルズ内のいくつかの店、などのプロデュースも行っている。なお本人は「魅力化」と呼んでいる。
YMO散開」後の1984年には、細野晴臣のおすみつきで、「二代目YMO」を2ヶ月間だけ襲名する。
1985年には、高岡一弥後藤繁雄との共同編集で雑誌『活人』(毎日新聞社)を創刊。創刊号の表紙を、裸の小泉今日子の全身黒塗り写真(イブ・クラインの写真の真似)で飾って、読者の度肝を抜かせた。だが、雑誌は2号で廃刊。1986年には小泉今日子の写真集『小泉記念艦』を企画・編集。「人体測定KYON2ver.」と題して、さまざまな色での「小泉の魚拓」(これもイブ・クラインの真似)を収録した。
また資生堂イプサの、伝説の広報誌「Cawaii Click!」や「イプサ文庫」なども手がけた。
さかのぼって1982年ごろに、デビュー前で喫茶店のウェイトレスをやっていた内田春菊に声をかけられ、「面白い子だ」と認めて彼女のペンネーム「春菊」を命名した。
その縁で、1995年に内田の自伝的小説『ファザーファッカー』の映画化の際にプロデューサーをつとめ、監督に初監督となる荒戸源次郎を指名。すると、逆に荒戸から「主人公の義父」役で出演を依頼され、約20年ぶりの映画出演となって、またも怪優ぶりを発揮。以降、多くの映画、テレビドラマに俳優として出演している。
近年はリリー・フランキー原作のアニメ『おでんくん』の声優もつとめている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「秋山道男」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.