翻訳と辞書
Words near each other
・ 碧奇魂ブルーシード
・ 碧宮るか
・ 碧山
・ 碧山亘右
・ 碧山日録
・ 碧巌録
・ 碧巌集
・ 碧川かた
・ 碧川企救男
・ 碧川澄子
碧川道夫
・ 碧志摩メグ
・ 碧梧桐
・ 碧水
・ 碧水惑星年代記
・ 碧水駅
・ 碧江
・ 碧江区
・ 碧海のAiON
・ 碧海りま


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

碧川道夫 : ミニ英和和英辞書
碧川道夫[みどりかわ みちお]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [おっと]
 【名詞】 1. (hum) (my) husband 

碧川道夫 : ウィキペディア日本語版
碧川道夫[みどりかわ みちお]
碧川 道夫(みどりかわ みちお、明治36年(1903年2月25日 - 平成10年(1998年3月13日)は日本の映画カメラマン。日本の映画色彩技術の草分け的存在である。多くの名作映画の撮影を担当し、『地獄門』で1954年文部省芸術祭文部大臣賞。
詩人の三木露風は異父兄、映画監督の内田吐夢義弟(妹の夫)。
== 経歴 ==
北海道小樽市碧川企救男かたの長男として生まれた(鳥取県米子市出身)〔『新日本人物大観』(鳥取県版)ミ…395頁には“米子市出身”と記載されている〕。父企救男は『小樽新聞』社会部長、論説記者。
1919年上智大学中退。松竹蒲田撮影所に入社、水谷文二郎とヘンリー・小谷に就く。1926年日活へ転じ、京都撮影所にて劇映画の傍ら、京都大学の協力を得て医学その他の学術映画を撮影する。1941年日本映画社技術長となり、次いで撮影者養成所長に就任。
1952年渡米し色彩技術を研究、翌年『地獄門』の色彩技術監督に当たり、1954年度文部省芸術祭文部大臣賞を受く。1963年に内田監督、カメラマンの宮島義勇とともに「碧川映画科学研究室」を開設。同年から1968年まで日本大学芸術学部で講義した。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「碧川道夫」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.