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相原四郎 : ミニ英和和英辞書
相原四郎[あいばら しろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [そう]
 【名詞】 1. aspect 2. phase 3. countenance
: [はら, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation
: [よん]
  1. (num) four 

相原四郎 : ウィキペディア日本語版
相原四郎[あいばら しろう]

相原 四郎(あいばら しろう〔相原の子孫は現在姓を「あいはら」と読んでいるが、当時の資料では「あいばら」と振り仮名がある資料が複数あるため後者を優先した。〕、1879年明治12年)10月2日 - 1911年(明治44年)1月8日)は、日本の海軍軍人
日本海軍の最初の搭乗員〔『海軍兵学校物語』83頁〕であり、また日本初の航空事故犠牲者とする見解もある〔『航空事始』255頁-257頁〕。相原は仏海軍士官ル・プリウール田中舘愛橘と協力して日本で最初のグライダー製作および飛行の成功に貢献し自らも搭乗した。この成功は日本における航空工学に則った機体飛行の最初の事例であった〔東京大学 日仏合作グライダー100年記念講演会式典 2012年8月10日閲覧〕。最終階級は海軍大尉

== 生涯 ==
現在の愛媛県松山市に生まれる。農業を営む父相原久米兵衛、母信の間に生まれた第四子で長男であった。松山中学在学中に父を失った相原は、海軍予備校として知られた攻玉社に転じ、1898年(明治31年)海軍兵学校に入校した〔『航空事始』33頁-37頁〕。海兵29期の同期生には米内光政などがいる。卒業席次は125名中89番であった〔『海軍兵学校沿革』「明治34年12月14日」〕。1903年(明治36年)1月、少尉任官。
;海軍将校
翌年には日露戦争開戦を迎え、相原は第21艇隊「第64号水雷艇」乗組み中尉として、第三回旅順港閉塞作戦に出動し、日本海海戦時は「音羽」乗組みであったとされる。ただし、『極秘 明治37.8年海戦史』では作戦計画に21艇隊は含まれておらず〔『第2編 旅順口及ひ仁川の敵艦隊に対する作戦/第10章 旅順口第3回閉塞』画像22枚目〕、第二軍の輸送艇隊の護衛に向かっている〔『第2編 旅順口及ひ仁川の敵艦隊に対する作戦/第10章 旅順口第3回閉塞』画像24枚目〕。また日本海海戦時の配員表では第20艇隊「第64号水雷艇」乗組みとなっている〔『戦袍余薫懐旧録 第2輯』〕。
戦後の相原は水雷学校に入り、無線電信を専攻する。1909年(明治42年)9月には大尉に進級し、翌年同郷の岡本雪江と結婚した。第一艦隊司令部附として無線電信について研究を進め、陸上仮設無線電信所の有効性を説いた報告書が残っている〔『無線電信(1)』画像4枚目-8枚目〕。相原は研究をさらに進めるべく海軍大学校選科学生を志望していたが、航空術研究を目的とした選科学生〔山本は相原、小濱に軍令部出仕として研究にあたらせる予定であったが、辞令は海大選科学生となった。山本は相原の勇気を評価していたのである(『海軍航空史話』)。〕を命じられる。相原が航空関係に進むことになった理由として、和田秀穂は相原の同期生であった村瀬貞次郎が、山本英輔に相原が気球搭乗経験を有することを伝えていたことを挙げている〔『海軍航空史話』18頁-20頁〕。山本は日本海軍において航空に着目した最初の人物であり〔『日本の海軍(下)』204頁〕、「空中飛行器に関する意見」を山屋他人に提出していたのである。山本は兵科から相原、機関科から内燃機関研究を目的に小濱方彦機関学校11期首席)を選抜したのである。山屋、山本は軍令部で戦備を担当する二班の班長と班員で、山屋は陸軍と協同した航空研究を提案したが陸軍側は見送った〔『海軍航空の基礎知識』14頁-19頁〕。
1909年当時相原は青山に居住していたが、近所にが住んでいた。プリウールは仏海軍兵学校を首席で卒業し〔『航空事始』45頁〕、日本への関心からその赴任を望んだ人物であり、また航空に関心がありグライダーの製作を行っていた。相原とプリウールは相識の仲となり、グライダーの製作に取り掛かる。同年8月20日と推定される日に、二人は青山学院の校庭でグライダーの飛行実験を行ったが失敗した。8月28日には臨時軍用気球研究会が発足し、相原は小浜とともに委員を命じられた。この委員会は会長に長岡外史が就任し、委員には田中舘愛橘日野熊蔵がおり、のちに徳川好敏金子養三も加わっている。相原は海大選科入学の頃から田中舘の研究室を訪れるようになっており、プリウールを田中舘に紹介する。こうして三人の協力による最終目標を発動機付飛行機開発とするグライダー製作が始まった。プリウールが設計した機体の模型を基に田中舘が理論的修正を加え風洞実験が繰り返される。11月には実機製作が始まり、相原は海軍関係の工場で必要な金具の製作などに協力した〔『航空事始』147-148頁〕。
;飛行実験
12月5日、一高の校庭で複葉グライダーの飛行実験が行われる。相原、田中舘、そしてプリウールはまず無人の状態で人力によって試み、機は浮揚に成功した。次いでプリウールや相原が搭乗したが浮揚しなかった。そこで見学に来ていた子供を搭乗させたところ成功した。次いで日比翁助の好意で用立てられた自動車が牽引し、大人が搭乗した状態で試みたが浮揚しなかった。原因は自動車の馬力、校庭の狭さ、発動機付飛行機を目的にしたことによる昇降舵方向舵補助翼の重量増などであった。なお子供の搭乗についてはその場で父親に了解を取っている〔『航空事始』21頁〕。
12月9日、場所を上野不忍池に移した実験が行われる。昇降舵の位置を前方に移す改良が施され〔『航空事始』153頁-162頁〕、機体は全長7.4m、材料は布と竹である。長岡外史らが見守る中、まずプリウールが搭乗し実験が開始される。最初は失敗したものの二回目は100mを飛行する。プリウールが次の飛行に成功したのち相原が搭乗した。機は20m上昇したが曳航綱の一本が切れ墜落し、周囲は混乱状態になった。しかし墜落地点は池であり相原は無事であった。プリウールは同月26日にも相原、田中舘立会いの下で実験を行ない飛行に成功している。
;ドイツへ派遣
1910年(明治43年)1月、臨時軍用気球研究会は飛行機購入と将校の海外派遣を決定し、海軍は派遣将校に相原を選ぶ。相原の欧米出張は二年の間に語学研究や「専ラ空中飛行術ノ調査視察ニ従事」を目的としていたのである〔『航空事始』231-232頁〕。相原は3月19日に出発し独国へ向かう。甲冑を土産に渡独した相原は国立高層気象台の初代所長で、成層圏の発見者リヒャルト・アスマン邸に寄宿した〔『航空事始』233頁〕。相原は独語の習得や、気象学の研究、飛行船に同乗し操縦方法の研究を行った。プリウールとはその帰国の途次、ベルリンで再会し旧交を温めている。1911年(明治44年)1月4日、同乗していた飛行船が墜落し、相原はその際の衝撃によって急性腹膜炎となり、8日に死去した。相原の死は航空事故に起因しているが、日本航空史一般においては航空事故犠牲者として認められていない。叙位進級措置もとられておらず、相原の死因は後進への影響を恐れた海軍省の意向で秘匿されたとする見解もある。
相原の死を受けて仏国へ派遣され、のちに海鷲育ての親と呼ばれることとなる金子養三は、相原について「我国航空界のパイオニヤーであった」と語った。
;その後
相原の死の翌年、日本海軍は海軍機国内初飛行を成功させ、1914年大正3年)には青島攻略戦に航空部隊を投入した。プリウールは講道館に入門した二人目の仏人であり、『柔道教範』を仏訳して刊行し、また創意工夫の才を発揮し、今日のアクアラング(酸素ボンベを使用した潜水具)の原型など34件の発明を行なった〔『航空事始』272頁-276頁〕。
;関連年譜


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「相原四郎」の詳細全文を読む




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