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白鳥鴻彰 : ミニ英和和英辞書
白鳥鴻彰[はくちょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しろ]
 【名詞】 1. white 
白鳥 : [はくちょう]
 【名詞】 1. (1) swan (Cygnus Bechstein, Cygnus ssp.) 2. (2) white-feathered bird 
: [とり]
 【名詞】 1. bird 2. fowl 3. poultry 

白鳥鴻彰 : ウィキペディア日本語版
白鳥鴻彰[はくちょう]

白鳥 鴻彰(しらとり こうしょう、1864年4月30日 - 1915年4月11日)は、日本政治家教育者
== 生涯 ==
白鳥家は、代々庄屋を務め、弘前津軽家から苗字帯刀を許された家柄であった。2代藩主津軽信牧の生母・栄源院(津軽為信側室津軽藩の家老・白取瀬兵衛の妹)の生家の分家で、白鳥長久の末裔という。白鳥氏は津軽家に仕えた後、「白鳥」を「白取」と改め、明治維新後に再び「白鳥」と改めた。
白鳥鴻彰は元治元年3月25日に津軽郡荒川村(現:青森市荒川)に、 白鳥慶一・いそ夫妻の長男として生まれる。幼名は初太郎または八太郎
父・慶一は明治11年(1878年)に府県会規則が公布され、明治12年(1879年)3月県議会の開催が決まると第1回の青森県議会議員選挙に立候補、当選。以後明治13年、明治15年、明治19年と通算4回当選。明治23年(1890年)に衆議院議員選挙に出馬し、当選した(病の為、1期)。
子は、先妻・トシとの間に荒川郵便局長を務めた長男の菊郎、後妻・アヤとの間に養子に出た覚郎(四代目千葉伝蔵・青森市長)、荒川村長を務めた穆郎(昭和19年(1944年)5月就任、昭和21(1946年)11月公職追放により退任)など4男。
鴻彰は明治8年(1875年)に前年に慶一が創設した白取小学(後の青森市立荒川小学校)に入学し、明治9年(1876年)に青森小学校へ転校。同年、旧藩校稽古館の流れを汲む東奥義塾に入学し、名を敬也(又は敬弥)と改めた。学生時代は剣道を好み、籠手取りの名手だった。明治13年(1880年)に青森専門学校青森師範学校の前身)へ入学。明治15年(1882年)に名を鴻幹と改め、東京専門学校早稲田大学の前身)政治科に入学。この年に、同郷で14歳の葛西トシと学生結婚した。
明治16年(1883年)に仙台市第二師団に看護卒として入隊。明治18年(1885年)、長男・菊郎が誕生するも妻のトシは産後50日で死去。明治20年(1887年)に帰郷し、青森から発行された「学術論誌」の編集人となった。明治22年(1889年)2月に荒川12か村の戸長、4月に荒川村会議員となった。明治23年(1890年)、後に青森市長となる三男・覚郎誕生(明治44年(1911年)に三代目千葉伝蔵(千葉三次郎)の養子となり、大正8年(1919年)2月に三代目の死去に伴い四代目千葉伝蔵を襲名。昭和3年(1928年)に青森市議会議員に当選。以後、市議8年、青森県議会議員4年。昭和11年(1936年)5月から昭和20年(1945年)7月まで青森市長)。明治27年(1894年)に『交際子』を出版。5月には東津軽郡会議員となる。9月1日に投票が行われた第4回総選挙に父・慶一が青森第1区から立憲革新党で出馬し当選。口下手の慶一に代わって鴻彰が演説し、その弁舌は論旨明快で情熱的であった。その為、慶一が当選したと言われた。
明治29年(1896年)1月5日、三代目の荒川村長となる(明治32年(1899年)5月24日退任)。明治30年(1897年) 8月、国有土地森林原野下戻法が国会で決議されると、山林下戻の調査を開始。(次章参照)明治31年(1898年)3月に『新国字論』出版。8月に鴻彰と改名。11月、荒川・高田両村共同で農商務大臣に山林下戻申請書を提出。明治36年(1903年)6月3日、2度目となる荒川村長に就任。6月、県議会議員選挙に当選(以降明治44年(1911年)まで通算2期8年在任)。12月19日、農商務大臣男爵清浦奎吾の署名で山林下戻不許可の指令伝達。明治37年(1904年)4月8日、荒川・高田両村合同で行政訴訟提起。明治41年(1908年)2月27日、勝訴判決。3月6日、勝訴書面送達。明治44年(1911年)1月、『荒川高田山林勝訴録』出版。4月、『寒村独語』出版。明治45年(1912年)2月24日、3度目の荒川村長に就任し、在任のまま大正4年(1915年)4月11日、腎臓炎で死去。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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