翻訳と辞書
Words near each other
・ 留学生
・ 留学生30万人計画
・ 留学生文学賞
・ 留学費用償還法
・ 留守
・ 留守中
・ 留守司
・ 留守営駅
・ 留守宅
・ 留守宅の事件
留守宗利
・ 留守官
・ 留守家族
・ 留守居
・ 留守居役
・ 留守居番
・ 留守所
・ 留守政府
・ 留守政景
・ 留守景宗


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

留守宗利 : ミニ英和和英辞書
留守宗利[だて むねとし]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

留守 : [るす]
  1. (n,vs) absence 2. being away from home 
: [もり]
 【名詞】 1. nursemaid 2. baby-sitting 
: [そう, しゅう]
 【名詞】 1. sect 
: [り]
 【名詞】 1. advantage 2. benefit 3. profit 4. interest 

留守宗利 : ウィキペディア日本語版
留守宗利[だて むねとし]

伊達 宗利(だて むねとし) / 留守 宗利(るす むねとし)は、江戸時代初期の武士仙台藩一門第三席・水沢伊達氏第2代(留守氏第19代)当主。
宗利は元服前の文禄元年(1593年)に伊達姓を拝領しているため、実際に留守宗利と名乗った期間はないが、これを記事名としているのは、明治2年(1869年)に水沢伊達氏は留守氏へと復姓しており、これにともなって昭和49年(1974年)に日高神社に建立された宗利銅像の銘板では「留守宗利公」と標記していることによる。
== 生涯 ==
天正18年(1590年)、宮城郡利府城主・留守政景の長男として生まれる。幼名は太利丸
同年の奥州仕置にて、父・政景は小田原征伐に参陣しなかったため領地を没収され、以降は実家の伊達家に戻って甥の伊達政宗に仕えた。政景は文禄元年(1593年)、政宗より伊達姓を拝領して一門の家格に列し、以後留守氏は幕末に至るまで伊達姓を称することになる(水沢伊達氏)。
慶長12年(1607年)、父の死去にともない家督を相続し、磐井郡一関城主となって18,366石を知行する。
慶長16年(1611年)には江戸城西ノ丸の貝塚堀普請役を務める。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では先鋒を務めて初陣を飾り、大坂夏の陣でも鉄砲隊を率いて奮闘したが、宗利が40数名しか兵を出さなかったことが政宗の勘気に触れ、身分相応の軍役を負担しなかったことを理由として、翌年元和2年(1616年)2月、10,000石に減封されて胆沢郡金ケ崎城へと移されたが、寛永6年(1629年)江戸城石垣小路の普請を完成させた功を以て、同年8月15日、水沢城への居城移転が認められ、水沢伊達氏は幕末に至るまで同地を所領とした。このため水沢伊達氏の歴代当主を、伊達姓に復帰した政景からではなく、水沢に入封した宗利から数える場合がある。
宗利は政宗の許しを得て水沢城を修築し、留守氏の旧本拠地であった岩切城や、利府城周辺に残してきた同氏ゆかりの寺社を水沢に移転させた。また、水沢城下の整備に努めたほか、寛永2年(1625年)から飛地の名取郡飯田で最上氏旧臣・小野常信(継室・多与の弟)に新田開発をさせるなど、所領の発展に力を尽くした。
寛永15年(1638年)8月15日死去。享年49。家臣8名が殉死。嫡男・宗直が家督を相続した。
昭和49年(1974年)、日高神社境内の瑞山神社(水沢伊達家祖廟)に宗利の銅像が建立された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「留守宗利」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.