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由布惟次 : ミニ英和和英辞書
由布惟次[ゆふ これつぐ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [よし]
 【名詞】 1. reason 2. significance 3. cause 
: [ぬの]
 【名詞】 1. cloth 
: [これ]
 (int,n) (uk) this
: [つぎ]
  1. (n,adj-no) (1) next 2. following 3. subsequent 4. (2) stage 5. station 

由布惟次 : ウィキペディア日本語版
由布惟次[ゆふ これつぐ]
由布 惟次(ゆふ これつぐ、永禄元年(1558年) - 寛永10年9月14日1633年10月16日))は安土桃山時代から江戸時代立花氏武将かつ重臣である。立花道雪立花宗茂二代に仕える。幼名は熊千代。は惟次。通称は五兵衛、長三郎、七右衛門、美作守。号は慶祐。父は由布惟信、母は由布下総守惟克の娘〔由布家続の父である由布惟克(加賀守)との関係は不明。〕。兄に由布惟定(宮内丞)、弟に由布惟紀(彦介)。妻は叔父である由布碁晨(掃部介)の娘で従姉妹にあたる。実子は1女(立花惟与室)。養子に立花惟与(由布玄蕃頭、壱岐守、十時連貞長男)、由布惟長(五兵衛、矢島重成3男)。
== 経歴 ==
元亀元年(1570年)に、父、弟と共に道雪に従って筑前へ行く。道雪の譜代家臣の1人で、父と共に筑前各地を転戦する。
天正9年(1575年)11月13日、 立花軍は大友家臣・毛利鎮実の筑前鷹取山城を兵糧運輸する際、その帰路に宗像氏の家臣や杉氏秋月氏の軍との小金原の戦い(清水原の戦いとも)にて、得意の鉄砲を持って敵大将・河津修理進を狙い撃ち、首を得て戦功を挙げたが、この戦で刀や槍によって13ヶ所ものの深傷を受け、感状も受領した〔『福岡県史資料. 第9輯』[]〕。その後、足が不自由となり、留守居役に勤めるが、豊臣秀吉二度目の朝鮮派兵・慶長の役でも立花軍の三番隊367兵を率いて、般丹の戦いなどに活躍した〔中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P153〕。弟の惟紀は朝鮮派兵で戦死した。
文禄5年(1596年)には父・惟信から家督と3,500石の俸禄を継承する〔『将士軍談』では食禄4500石、城番とある。だが、この石高は誤記となる〕〔中野等『立花宗茂』P93〕。さらに慶長4年(1599年)に養子惟与が由布家の家督を継承する〔中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P162〕。関ヶ原の戦い後、立花家は改易しながら一族と共に主君・宗茂に従って、浪人となったが、慶長8年(1603年)宗茂が将軍徳川家康に見出されて陸奥棚倉藩1万石に封じられると、江戸で将軍に近侍する宗茂に代わって、父の惟信と共に藩内の行政を担当した。
のち元和6年(1620年)立花家の柳川再封後も、宿老の1人として、養子の惟与と共に各類の文書や内政、外交事務を担当した。
なお、『将士軍談』では由布惟明(大炊介)の次男である由布三五兵衛西雲と父の惟信と混同されているが「柳河藩享保八年藩士系図・上」によれば別家である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「由布惟次」の詳細全文を読む




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