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片山潜 : ミニ英和和英辞書
片山潜[かたやま せん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 

片山潜 : ウィキペディア日本語版
片山潜[かたやま せん]

片山 潜(かたやま せん、1859年12月26日安政6年12月3日) - 1933年昭和8年)11月5日)は、日本労働運動家・社会主義者・マルクス主義者・思想家社会事業家。号は深甫。
== 生涯 ==
美作国久米南条郡羽出木村(後の弓削町、現在の岡山県久米郡久米南町羽出木)に庄屋藪木家の次男として生まれる。幼名は菅太郎(すがたろう)。
1877年明治10年)10月、神目村(現在の久米南町神目中)の親戚・片山幾太郎の養子となる。この養子縁組兵役忌避が目的だったと言われている。1880年(明治13年)に岡山師範学校(現在の岡山大学教育学部)に入学するが、翌1881年(明治14年)に退学して上京。攻玉社にて塾僕として勤務し、1884年(明治17年)、友人岩崎清七の勧めに応じてアメリカ合衆国へ渡る。
サンフランシスコ郊外サンラフェールという村の小さな家塾で皿洗いをして働く。その後、サンフランシスコ下町の大工の家、ポノマの宿屋、アラメダの家庭にコックをして住み込む。アラメダで中国人のキリスト教会に通い英語とキリスト教を学ぶ〔阿川尚之『アメリカが見つかりましたか(戦前篇)』都市出版、1998年。阿川によると、『渡米案内』という片山の『自伝』引用される書物よると、「日曜日に教会に行く機会を得遂に耶蘇教徒となると得たり」と記しているのに、『自伝』では「予は耶蘇教徒になっても熱したこともなく、冷めたこともなかった、アンドーヴァー神学校に学んだ時は聖書を八つ裂きにして研究もしたが、耶蘇に対して変わった感情も持たなかった。最初から、余は耶蘇を神と思わなかったからであらう。」と記している。阿川は、モスクワに身を寄せたマルキスト片山によって、若いころ熱心なキリスト教徒であったのは具合が悪かったのだろうと述べている。〕。そして、1886年11月組合教会の教会でキリスト教の洗礼を受ける〔辻野功「片山潜」『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年、p297〕。その後、苦学してメリーヴィル大学グリンネル大学アンドーヴァー神学校エール大学神学部で学び社会的キリスト教の感化を受ける。また、プラトンソフォクレスなどの原典を通じて、西洋古典学を修め、学位を取得して1896年(明治29年)、帰国した。
帰国後は牧師か伝道師を志望したが叶わず、イギリスを源流とするアメリカセツルメント運動に共感。宣教師ダニエル・クロスビー・グリーンの支援を受け、友人である高野房太郎とともに神田区三崎町の自宅を改良し、キリスト教社会事業の拠点として1897年(明治30年)、日本人最初の隣保館である「キングスレー館」を設立した。
キングスレー館の運営の傍らで片山は労働運動に力を尽くし、1897年(明治30年)12月『労働世界』を創刊し主筆を務め、日本で最初の労働組合である職工義友会(労働組合期成会)の設立に大きな役割を果たす。1897年(明治30年)4月に中村太八郎の社会問題研究会(後の社会主義研究会)結成に加わり、1901年(明治34年)に社会主義研究会を改組した日本で最初の社会主義政党である社会民主党幸徳秋水らとともに入党した。
また1903年(明治36年)12月に再度渡米し、翌1904年(明治37年)、第二インターナショナルの第五回大会で安部磯雄とともに本部員に選ばていた片山はアムステルダムで開催した万国社会党の第六回大会に出席。折しも日露戦争の最中にあって、ロシア代表のプレハーノフとともに労働者の反戦を訴えた。
1906年(明治39年)、日本社会党結党に参加。しかし、片山と安部らは議会政策論を説き〔東京朝日新聞1933年11月7日付〕、直接行動論を採る幸徳秋水らと対立し袂を分けた。1911年(明治44年)、東京市電ストライキの指導を行ったとして逮捕され投獄された。1912年大正元年)9月、大正天皇即位の大赦によって出獄。その後、1914年(大正3年)にアメリカへ亡命し、1917年(大正6年)のロシア革命により、マルクス・レーニン主義に傾倒。アメリカ共産党メキシコ共産党の結党に尽力するなど北米での共産主義活動を行った。
1921年(大正10年)、ソビエト連邦に渡り、コミンテルン常任執行委員会幹部となる。国外にあって日本共産党結党の指導を行い、また国際反帝同盟を指導し反戦運動に従事した。
1933年昭和8年)11月5日に敗血症のため〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)8頁〕モスクワで死去。9日に行われた葬儀には15万人のソビエト市民やコミンテルン指導者らが集まった。棺に付き添った14人には、ミハイル・カリーニンヨシフ・スターリンヴィルヘルム・ピーククン・ベーラ野坂参三たちがいた。遺骨はクレムリン宮殿の壁に他の倒れた同志たちと共に埋葬されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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