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法隆寺金堂釈迦三尊像 : ミニ英和和英辞書
法隆寺金堂釈迦三尊像[ほうりゅうじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ほう]
  1. (n,n-suf) Act (law: the X Act) 
: [てら]
 【名詞】 1. temple 
: [きん]
  1. (n,n-suf) (1) gold 2. (2) gold general (shogi) (abbr) 
金堂 : [こんどう]
 (n) main temple structure (sanctuary, hall)
: [どう]
  1. (n,n-suf,n-pref) (1) temple 2. shrine 3. hall 4. (2) prefix to building meaning "magnificent" 
釈迦 : [しゃか]
 【名詞】 1. Shakyamuni 2. the Buddha 
: [み]
  1. (num) three 
: [みこと]
 【名詞】 1. (1) lord 2. prince 3. (2) words of a ruler
尊像 : [そんぞう]
 【名詞】 1. statue of a noble character 2. your picture
: [ぞう]
  1. (n,n-suf) statue 2. image 3. figure 4. picture 5. portrait 

法隆寺金堂釈迦三尊像 : ウィキペディア日本語版
法隆寺金堂釈迦三尊像[ほうりゅうじ]

法隆寺金堂釈迦三尊像(ほうりゅうじこんどうしゃかさんぞんぞう)は、奈良県生駒郡斑鳩町にある聖徳太子ゆかりの寺院・法隆寺に伝来する飛鳥時代仏像
== 金堂釈迦三尊像と薬師如来像 ==
法隆寺西院伽藍は現存する世界最古の木造建築であるが、聖徳太子(622年没)在世時の建物ではなく、創建時の伽藍が天智天皇9年(670年)に焼失した後に再建されたものであるということが定説になっている。西院伽藍が創建時の建物であるか再建であるかについては、明治以来数十年にわたって論争(再建・非再建論争)があったが、1939年の旧伽藍(若草伽藍)の発掘調査以降、再建説が定説となっている(再建・非再建論争の詳細については法隆寺#再建・非再建論争の項を参照)〔(大橋、1998)、pp.30 - 31〕。現存する金堂は7世紀末頃の建築とみられる〔(鈴木、1994)、p.256〕。
西院伽藍の中心的な建物である金堂の内陣には「中の間本尊」の釈迦三尊像、「東の間本尊」の薬師如来像、「西の間本尊」の阿弥陀三尊像の3組の本尊が安置されている(以上の仏像はいずれも銅造)。なお、「中の間」「東の間」「西の間」は相互に壁などで明確に仕切られているわけではなく、柱の位置と、天井に吊るされた3つの箱形天蓋とによってゆるやかに区切られているにすぎない〔(大西、1987)、pp.49 - 50〕。3組の本尊のうち「中の間」の釈迦三尊像の光背裏面には推古31年(623年)造立、「東の間」の薬師如来像の光背裏面には推古15年(607年)造立の銘文がある。しかし、前述のとおり、現存する金堂7世紀末頃の再建であり、それ以前に釈迦三尊像と薬師如来像がどこに安置されていたのかは不明である〔(川瀬、1998)、p.81 〕。また、これら2組の像の光背銘については、文中の用語の解釈などをめぐってさまざまな説があり、上記の造立年代の信憑性を疑う説もある。特に薬師如来像については、銘文中の用語と像自体の作風・技法の両面から、この像を文面どおり607年の作とする考えは今日ではほぼ否定されており、釈迦三尊像(623年銘)よりも年代的には下る制作とみなされている〔(大西、1987)、p.16〕。天平19年(747年)作成の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』(以下、『法隆寺縁起』または『資財帳』と略称)の仏像を列挙した部分では、冒頭に薬師像と釈迦像の記載があり、両像が遅くとも8世紀(奈良時代)には金堂内に安置されていたことがわかる〔(川瀬、1998)、p.81 〕。なお、「西の間」の阿弥陀三尊像は、光背銘によれば、もとの像が平安時代末期に盗難に遭った後、貞永元年(1232年)に制作されたものである〔『国宝法隆寺金堂展』(展覧会図録)、p.179 〕。
薬師如来像の光背銘には、「病を得た用明天皇は、丙午年(586年)に寺(「法隆寺」と明記はされていない)と薬師像を造ることを発願したが、それを果たさないうちに崩御したので、遺命を奉じた推古天皇と聖徳太子が丁卯年(推古15年・607年)に像と寺とを造った」という意味のことが記されている〔(大西、1987)、p.15〕。天平19年(747年)の『法隆寺縁起』もこれを踏襲し、寺の創立を推古15年(607年)のこととしている〔(大西、1987)、p.16〕。一方、釈迦三尊像の光背裏面には、西暦623年にあたる年、その前年に亡くなった聖徳太子のために止利仏師がこの像を造ったとの銘がある。法隆寺の創建縁起にかかわる銘文を有し、607年に造られたとされる薬師如来像が金堂の中央ではなく東脇に安置され、これより16年後に完成した623年銘の釈迦三尊像の方が堂内中央に安置されていることについては古くから疑問視されていた。鎌倉時代の法隆寺の学僧で、『聖徳太子伝私記(古今目録抄)』の著者である顕真もこの点を不審に思い、同書に「当初は薬師如来像が本尊であったが、釈迦三尊像の方が大きいので、後に交替して釈迦三尊が本尊になった」という意味のことを記している。しかし、寺の本尊が単に像の大きさのみで交替するということは常識的には考えにくい。また、釈迦三尊像の頭上に吊るされている箱形天蓋(飛鳥時代)の大きさが同像の台座とほぼ同じ大きさであることからみても、金堂「中の間」本尊は当初から釈迦三尊像であったとみるのが自然である〔(鈴木、2008)、p.38 〕。釈迦三尊像については、法隆寺建立以前に斑鳩の地に建てられていた聖徳太子の斑鳩宮にもと安置されていたとする説もある〔(鈴木、2008)、p.38〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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