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殷浩 : ミニ英和和英辞書
殷浩[いん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いん]
 (pref) flourishing

殷浩 : ウィキペディア日本語版
殷浩[いん]
殷 浩(いん こう、生年不詳 - 356年)は、中国東晋政治家軍人。「竹馬の友」の故事で知られる。淵源本貫陳郡長平県
== 経歴 ==
豫章郡太守の殷羨の子として生まれた。若くして美名があり、『老子』や『易経』を好み、叔父の殷融とともに清談で知られた。征西将軍庾亮の下で記室参軍とされ、司徒左長史に進められ、また庾翼に求められて安西司馬とされ、さらに侍中・安西軍司に任じられたが、いずれも病を理由に応じなかった。墓所に10年近くも隠居して、世間ではかれへの待望論が高まった。王蒙・謝尚や庾翼らが出仕を勧めたが、聞き入れなかった。346年永和2年)、褚裒の推薦により会稽王司馬昱に召し出されて、建武将軍・揚州刺史となった。殷浩がしきりに辞退を申し出たことから、3月から7月になって、ようやく任を受けた。
347年(永和3年)に桓温成漢を滅ぼし、東晋におけるその勢力が拡大したため、殷浩は桓温の対抗馬として期待されるようになった。ときに父が死去したため、殷浩は辞職して喪に服した。会稽王司馬昱は蔡謨に揚州を預からせて、殷浩の復帰を待った。喪が明けると、殷浩は建康に召されて尚書僕射とされたが、受けなかった。再び建武将軍・揚州刺史に任じられ、朝政に参画するようになった。殷浩は荀羨を義興郡太守や呉国内史に抜擢した。王羲之は桓温と協調するよう、殷浩に勧めたが、殷浩は聞き入れなかった。
349年(永和5年)に後趙石虎が死去し、華北が混乱すると、東晋の朝廷は黄河流域や関中の奪還を計画していた。翌350年(永和6年)、殷浩は中軍将軍・仮節・都督揚豫徐兗青五州軍事に任じられた。352年(永和8年)、殷浩は北伐を上奏して、軍を率いて出立した。淮南郡太守の陳逵や兗州刺史の蔡裔を先鋒とし、安西将軍の謝尚や北中郎将の荀羨を督統として、長江の西に新田1000頃あまりを開拓させて、軍糧を確保した。兵を寿陽に進めると、ひそかに前秦の大臣の梁安や雷弱児らを誘って、苻健を暗殺させようとした。ときに降将の姚襄が魏憬を殺してその部下を併呑したため、殷浩はこれに怒って姚襄を梁国内史に移させた。魏氏の子弟が寿陽を往来していたため、姚襄はますます猜疑心に駆られて、殷浩への接近を主張する部下を粛清した。苻健がその大臣を殺し、苻健の兄の子の苻眉が洛陽から西に逃れたため、殷浩は梁安の工作が成功したものと思い、姚襄を先鋒にして洛陽へと進軍させた。冠軍将軍の劉洽を鹿台に駐屯させ、建武将軍の劉遁を倉垣に拠らせ、自身も揚州刺史の解任を申し出て、洛陽駐留の専任を求めたが、朝廷に許されなかった。殷浩は許昌に入ったが、張遇が叛いて前秦についた。謝尚が敗れたため、殷浩は寿陽に帰った。後に再び進軍して山桑に入ったが、姚襄が反乱を起こしたため、殷浩は輜重を棄てて譙城に撤退した。攻城器具や軍糧は姚襄に奪われ、兵士の多くは叛いて前秦についた。殷浩は劉啓や王彬之を派遣して姚襄を山桑に攻撃させたが、ともに姚襄に敗れて殺害された。
354年(永和10年)、桓温が殷浩の敗戦の罪を上疏して弾劾したため、殷浩は官爵を剥奪されて、庶人とされ、東陽郡信安県に移された。356年(永和12年)、死去した。
子の殷涓は、やはり美名があったが、武陵王司馬晞や庾倩らとともに反乱を計画したと桓温に誣告され、殺害された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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