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楊梅兼行 : ミニ英和和英辞書
楊梅兼行[やまもも かねゆき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [よう, やなぎ]
 【名詞】 1. willow 2. slim
: [うめ]
 【名詞】 1. (1) plum 2. Japanese apricot 3. prunus mume 4. (2) lowest (of a three-tier ranking system) 
: [けん]
  1. (conj,n) and 2. in addition 3. concurrently 
兼行 : [けんこう]
 (n,vs) doing simultaneously
: [くだり, ぎょう]
 【名詞】 1. (1) line 2. row 3. (2) verse 

楊梅兼行 : ウィキペディア日本語版
楊梅兼行[やまもも かねゆき]

楊梅 兼行(やまもも かねゆき)は、鎌倉時代中期の公卿。従二位民部卿。前期京極派歌人。父は左中将楊梅親忠〔『公卿補任』では父を入道三品忠兼、実父を親忠とする記述がある。『尊卑分脈』から判断すると、楊梅忠兼は兼行の曾祖父従二位兵部卿楊梅忠行の弟で、従三位左少将であった人物のことと考えられる。〕。母は中納言吉田為経の娘。姉妹に伏見院新宰相後深草院宰相がいる。子には俊兼、兼高、盛親、資親の室となった女子、公春の室となった女子がいる。
== 家系 ==
兼行が生を受けた楊梅家は法興院関白藤原兼家の息男、大納言右大将道綱〔道綱の生母は『蜻蛉日記』の作者右大将道綱母である。〕の後裔である。道綱の玄孫である藤原季行の嫡男藤原定能藤原資季を輩出した樋口家(二条家)が嫡流であり、季行の息男重季の系統を楊梅家と称し、非参議公卿の家格〔参議以上の議政官には就けず、極位は従二位、極官は兵部卿や宮内卿、民部卿である。〕である。藤原敦家以来、篳篥に秀でた家系として知られるが、いずれの系統も室町時代に断絶している。
== 経歴 ==
以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
正嘉2年(1258年)11月6日、叙爵弘長2年(1262年)10月6日、侍従に任ぜられる。文永2年(1265年)1月5日、従五位上に昇叙。文永3年(1266年)11月2日、左少将に任ぜられる。文永5年(1268年)1月7日、正五位下に昇叙。文永6年(1269年)7月28日、父の喪から明けて復任。文永8年(1271年)1月5日、従四位下に昇叙。2月2日、少将は元の如し。建治2年(1276年)1月5日、従四位上に昇叙。建治4年(1278年)2月10日、周防権介を兼ねる。正応2年(1289年)1月7日、正四位下に昇叙。12月12日、右中将に転任。正応3年(1290年)10月29日、左兵衛督に転任。
正応5年(1292年)3月29日、従三位に叙される。4月1日、左兵衛督は元の如し。閏6月16日、督を止める。永仁2年(1294年)3月27日、正三位に昇叙。永仁5年(1297年)6月7日、兵部卿に任ぜられる。永仁6年(1298年)10月19日、民部卿に転任。正安元年(1299年)3月24日、従二位に昇叙。正安3年(1301年)3月14日、民部卿を止める。嘉元2年(1304年)5月、後深草院の出家に伴い出家。法名は兼蓮。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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