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楊戯 : ミニ英和和英辞書
楊戯[よう ぎ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [よう, やなぎ]
 【名詞】 1. willow 2. slim

楊戯 : ウィキペディア日本語版
楊戯[よう ぎ]
楊 戯(よう ぎ、 ? - 261年)は、中国三国時代の政治家。益州犍為〔読みは「けんい」〕郡武陽県の人〔楊洪や楊恭と同族である(楊洪伝・張裔伝)。李密は同郷の後輩。〕。字を文然蜀漢に仕えた。『蜀書』鄧張宗楊伝に単独の伝がある。
== 生涯 ==
郡において名が知られていた存在であり、諸葛亮にも注目されていた。20余歳で州の書佐から督軍従事となり、軍内の裁判を司った。ある裁判における公正な判断振りが評価され、丞相府に召し寄せられて主簿に任命された。諸葛亮の没後、尚書右選部郎に任命されるが、蒋琬に請われ治中従事史となった。蒋琬が大将軍となり将軍府を開くと、召し寄せられ東曹掾となった。
後、南中郎参軍に昇進し、庲降〔読みは「らいこう」〕都督の副将となり建寧太守を兼任した。しかし病気により成都へ召還され、護軍監軍に任命された。後に再び地方に出て梓潼〔読みは「しとう」〕太守を担当、また中央に戻り射声校尉となった。どの職においても清潔で簡約という評価を得たという。
延熙4年(241年)、『季漢輔臣賛』を著した。
延熙20年(257年)、姜維らと共に出陣し芒水まで至った。楊戯は姜維を嫌っていたため、酒の席で嘲るような発言をすることが多々あった。姜維は表面上平静を取り繕っていたが、内心穏やかではなかった。そのため軍の帰還後、姜維の意を受けた担当官吏に上訴され、免官された上で庶民に落とされてしまった。景耀4年(261年)に死去した。
三国志』の著者陳寿は「怠惰で、仕事も適当に手を抜く性分ではあったが、一度も他人に取り入る言葉を口にしたり、過度の愛情をもって人に接したりしなかった」と評している。一方で、旧友への援助は惜しむことなくこれを与え、また、蜀においては評価が低かった譙周(陳寿の師)の才能を絶賛し、識者からの自らへの評価をも高めたという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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