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桂歌丸 : ミニ英和和英辞書
桂歌丸[かつら うたまる]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [けい, かつら]
 (n) (abbr) knight (shogi)
: [うた]
 【名詞】 1. song 2. poetry 
: [まる]
 【名詞】 1. (1) circle 2. (2) full (month) 3. (3) perfection 4. purity 5. (4) suffix for ship names 

桂歌丸 : ウィキペディア日本語版
桂歌丸[かつら うたまる]

桂 歌丸(かつら うたまる、1936年昭和11年〉8月14日 - )は、日本落語家。本名は椎名 巌(しいな いわお)。
神奈川県横浜市中区真金町(現:南区真金町)の出身・在住。定紋は『丸に横木瓜』。血液型A型横浜市立横浜商業高等学校定時制中退。
出囃子は『大漁節』。公益社団法人落語芸術協会会長(5代目)。当初は新作落語中心だったが、近年は、廃れた演目の発掘や三遊亭圓朝作品など古典落語に重点を置いて活動している。地元・横浜においては横浜にぎわい座館長(2代目)、横浜橋通商店街名誉顧問も務めている。位階勲等旭日小綬章
演芸番組笑点』(日本テレビ)の放送開始から大喜利メンバーとして活躍し〔笑点の前身番組『金曜夜席』の放送開始から現在に至るまで番組出演中。現在では『笑点』開始からはもちろん、『金曜夜席』時代からの唯一の出演者でもある。〕、現在は同番組の5代目司会者を務める。
== 来歴・人物 ==
=== 落語家までの道 ===
* 生家は横浜・真金町の妓楼「富士楼」であり、間近で遊女達を見て育ったためか、女の化粧風景を描写した「化粧術」の珍芸を持つ〔2006年1月の『大笑点』では城島茂に伝授している。〕。
* 「浜っ子」であることを誇りにしており、古典落語独特の江戸ことばは多用しない。
* 戦時中、母方の実家である千葉に疎開している最中に横浜の空襲で生家も焼失したが、戦後すぐに祖母はバラックを建て「富士楼」の経営を再開。貧しい時代にあっても食料に困ることもなく、当時高価だったラジオも持っていた。このラジオでよく聴いていた落語に影響されたことが落語家になるきっかけとなっている。祖母に連れられてよく行った伊勢佐木町の大衆劇場『敷島座』で芝居の幕間で観た漫才にも夢中になって漫才師になることも考えたが、「わがままな自分にとって二人で演芸をするのは無理かな」と思ったことも落語家のきっかけの一つだという。小学校4年生の頃には将来落語家になるとすでに決めていた。戦後まだ青空教室だったため、小学校の時に体育の時間になると自習なので落語を演じていた。これが非常に好評で、時には隣のクラスの先生から落語をやってくれないかと要請があった。
=== 落語家 ===
* 横浜市立吉田中学校在学〔横浜市立吉田中学校同窓会会長挨拶 〕中に、女郎屋の慰労会の席で当時二つ目だった5代目春風亭柳昇の落語を聴いて、落語家になる決意を完全に固めた。そして、NHKの出版部にいた遠縁の親戚を通じて誰に弟子入りしたらよいかを相談し、「一番面倒見の良い人だから」という理由で5代目古今亭今輔を薦められ、中学3年だった1951年(昭和26年)に入門することになる。ちなみに本人は「噺家になれさえすれば師匠は誰でも良かった」とのこと〔祥伝社黄金文庫 「歌丸 極上人生」p52〕。
* はじめに兄弟子で、後の師匠である米丸の初名であった「古今亭今児」を名乗る。その際今輔から言われたことは「芝居を見ろ」。今輔によると歌舞伎を見ることは落語に活きるからだと言い、実際自ら演じる際はそのエピソードをマクラで語っている。
 * このためか、中村吉右衛門出演の歌舞伎をよく見に行くという。歌丸いわく、仕草や立振舞などを見て落語に活かすためとのこと。ちなみに、吉右衛門いわく、「歌丸師匠は歌舞伎を見るのにいい席に座っている」とし、「舞台から見ても歌丸だとすぐにわかる」らしい。ただし、両者に直接的な面識はまったくなかったとのことで、歌丸は、吉右衛門と『鬼平犯科帳』で共演していた先代の江戸家猫八に「吉右衛門のサインをもらってきてほしい」と頼んだとのことである。後に吉右衛門は、頭をなでながら「いろいろと照れ屋さん」と歌丸を評している。
* 今輔門下から兄弟子・4代目桂米丸門下へ移籍したのは、当時芸術協会で勃発した香盤(序列)問題〔祥伝社黄金文庫 「歌丸 極上人生」p89〕や、今輔が新作派なのに対し高座で古典落語ばかり演じていたことに端を発している〔祥伝社黄金文庫 「歌丸 極上人生」p95〕。この一件で今児は破門状態となり、一時、ポーラ化粧品本舗のセールスマンへ転職〔祥伝社黄金文庫 「歌丸 極上人生」p97〕するが、三遊亭扇馬(のちの3代目橘ノ圓)の肝いりで落語界に復帰。しかし今輔が付けた条件により兄弟子・米丸門下となった〔祥伝社黄金文庫 「歌丸 極上人生」p102〕(米丸も「浜っ子」である)。なお歌丸の著書によれば新師匠の米丸からは入門に際して寄席の初日と中日には必ず今輔宅に顔を出すことを言いつけられたという〔祥伝社黄金文庫 「歌丸 極上人生」p104〕。そのおかげで今輔とは破門以前と同様の関係を維持することができ、後述のように寄席などでの真打昇進興行や口上にも今輔は出演している〔祥伝社黄金文庫 「歌丸 極上人生」p282〕。
 * 一部の記事では、1961年(昭和36年)に「今輔死去に伴い兄弟子米丸門下に移籍」との表記があるが、これは誤り。米丸門下に移籍したこと自体は1961年(昭和36年)のことだが、先述のように今輔一門からの事実上の破門状態になったことによるもので、今輔死去は1976年(昭和51年)である。現に、1968年(昭和43年)に行われた『笑点』での歌丸の真打昇進披露口上では、今輔と米丸が揃って登場している。
* 米丸に師事して「古今亭今児」から「桂米坊」に改名したが、1964年(昭和39年)1月、現在の「桂歌丸」に再改名。どちらも米丸が考案して付いた名である。したがって歌丸は当代が初代であり、名跡ではない。歌丸本人は「歌丸」の由来を知らない。米丸は、落語の枕にて「『歌丸』という芸名の由来はですね、桂歌之助以外の『桂』を名乗っている落語家で、芸名に『歌』が入る落語家が少ないため、芸名に『歌』を入れたんです」と語っている。
* 米丸はほとんど稽古を付けず、米坊(当時)を鞄持ち兼座付作家扱いにしていた。しかし、これで放送局関係等にコネクションができたほか、米丸のラジオ番組の構成をしていたことがネタ作りの鍛錬になり、古典の掘り起こしの際の一部改作や独自のくすぐりを入れたりするのに役に立ったという(後述「妻・冨士子」の項参照)。ちなみに、弟弟子であるヨネスケに最初に稽古を付けたのは、米丸ではなく歌丸であったという。
* 著書の中で、1978年(昭和53年)に起きた落語協会分裂騒動の際、新しくできた落語三遊協会に5代目三遊亭圓楽を通じて、参加を要請されたことを明らかにしているが、歌丸自身は上記の経緯で米丸一門に移籍したと説明し、参加を断っている〔祥伝社黄金文庫 「歌丸 極上人生」p161 - 162〕。
* 自身の弟子の高座名は、歌丸の「歌」の文字を頭に付けることを原則としているが、一番下の弟子であった3代目桂枝太郎のみ、本人の希望により、二つ目時代は「丸」の付いた名前が欲しいとしたため、「花丸」を名乗らせていたとしている。歌丸曰く、「学校の時の成績がよっぽど悪かったため、名前だけでも丸が欲しかったのではないか(笑)」として、「花丸」になったとのこと。なお、あとの4人は、預かり弟子でもある、惣領弟子の歌春(歌丸門下になったと同時に、「歌はち」に改名していた)を含め、すべて、「歌某」の高座名である〔祥伝社黄金文庫 「歌丸 極上人生」p231〕。
* また、通常であれば弟子は師匠の鞄持をするものであるが、タレント性にどっぷり浸かってしまう恐れがあることから、落語に専念するよう、自分の弟子には寄席の楽屋への鞄持をさせても、笑点の楽屋への鞄持は絶対させないとのこと。しかし、前述の一番下の弟子だけは、歌丸の願いもむなしく、タレント性にどっぷり浸かってしまったと述べていたことがある(ちなみに、惣領弟子の歌春も、歌はち時代に『笑点』の座布団運びアシスタントをしていた時期がある)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「桂歌丸」の詳細全文を読む




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