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松山康久 : ミニ英和和英辞書
松山康久[まつやま やすひさ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [まつ]
 【名詞】 1. (1) pine tree 2. (2) highest (of a three-tier ranking system) 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 

松山康久 : ウィキペディア日本語版
松山康久[まつやま やすひさ]

松山 康久(まつやま やすひさ、1943年9月4日 - )は日本中央競馬会 (JRA) ・美浦トレーニングセンターに所属した調教師である。
調教助手を経て1974年に調教師免許を取得し、1976年に開業。1983年に中央競馬史上3頭目のクラシック三冠を達成したミスターシービーをはじめ、1989年の東京優駿(日本ダービー)優勝馬ウィナーズサークルGI競走2勝を挙げたジェニュインなどを手がけた。1994年度JRA最多勝利調教師。2014年に70歳定年により引退。通算成績は7789戦1013勝(うちJRA7700戦1001勝)。
東京都府中市出身。父は騎手・調教師の松山吉三郎調教師顕彰者)。叔母はバレエダンサー松山樹子松山バレエ団創始者)。
== 経歴 ==
1943年、当時日本競馬会の騎手であった松山吉三郎の次男として生まれる〔木村(1997)pp.92-95〕。名門・尾形藤吉厩舎に所属していた父のもとで、数々の名馬を目の当たりにしながら育ち、幼少期は2歳上の兄と共に騎手を目指していた〔。しかし中学時代に体格が大きくなり過ぎたことから断念し、目標を獣医師に改め、明星中学校・高等学校を経て麻布獣医科大学に進学〔。大学では馬術部に所属した〔。卒業後、北海道日東牧場で1年間研修したのち、1966年に父・吉三郎厩舎へ調教助手として入る〔。1968年からはアメリカフランスで1年3カ月間の研修を積んだ〔。帰国後、吉三郎のもとで改めて助手を務め、1974年に調教師免許を取得。1976年、東京競馬場で厩舎を開業した〔1978年より美浦トレーニングセンター。〕。
翌1977年にギャラントダンサー朝日杯3歳ステークスを制し、重賞初勝利。1979年には調教技術賞を初受賞し、以後毎年のように賞を受ける有力調教師となる。1983年には吉三郎厩舎の兄弟子である吉永正人が駆るミスターシービーが皐月賞を制し、八大競走初制覇を果たす。同馬は続く二冠目の日本ダービーも制し、これに伴い松山は史上初となる父・吉三郎と親子でのダービートレーナーとなった。さらにミスターシービーは秋の菊花賞も制し、シンザン以来19年ぶり・史上3頭目のクラシック三冠を達成。同年、松山は最優秀調教師に選出された。シービーは翌1984年、グレード制が導入されGI競走となった天皇賞(秋)にも優勝し、「四冠馬」となっている。1989年にはウィナーズサークルが日本ダービーを制し、ダービー2勝目を挙げた。
1994年、年間40勝を挙げて全国リーディングトレーナー(最多勝利調教師)となる。1995年、1996年にはジェニュインがそれぞれ皐月賞とマイルチャンピオンシップに優勝した。2004年にはカフェオリンポスジャパンダートダービーに優勝。2007年には関東3位(全国7位)の37勝を挙げるなど安定した成績を保っている。
2014年1月26日、2月28日の定年を前にJRA史上14人目の通算1000勝を達成。父・吉三郎と親子での1000勝達成は史上初の記録であった〔。更に、史上初となる親子調教師顕彰者にも選出された。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「松山康久」の詳細全文を読む




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