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杉浦敏朗 : ミニ英和和英辞書
杉浦敏朗[すぎうら]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [すぎ]
 【名詞】 1. Japanese cedar 2. cryptomeria japonica 
: [うら]
 【名詞】 1. inlet 

杉浦敏朗 ( リダイレクト:和晃敏郎 ) : ウィキペディア日本語版
和晃敏郎[かつひかり としお]
和晃 敏郎(かつひかり としお、1942年8月9日- )は、愛知県蒲郡市神ノ郷町出身で、1960年代から1970年代にかけて活躍した大相撲力士である。伊勢ヶ濱部屋(入門時は荒磯部屋)に所属していた。本名は杉浦 敏朗(すぎうら としお)。現役時代の体格は186cm、112kg。最高位は東前頭筆頭(1970年9月場所)。得意手は左四つ、寄り、上手投げ
== 来歴・人物 ==
蒲郡中学校では後の横綱玉の海の1年先輩に当たり、相撲部で主将を務めていた。その後進学した愛知県立蒲郡高校を1年生途中で中退し、荒磯部屋(後、1961年1月より伊勢ヶ濱部屋に改称)へ入門。1958年11月場所で初土俵を踏んだ。初土俵の同期には、後の前頭・栃王山らがいる。
以来、着実に番付を上げてゆき、1965年5月場所で十両へ昇進した。だが、軽量と生来の気の弱さにより、本場所中は取組への不安から鎮静剤が無いと夜眠れなかったという。その後十両下位と幕下を往復する状況が3年以上続いたが、徐々に十両でも成績が残せるようになり、1969年9月場所で新入幕を果たした。
一見地味ではあるが、長身を生かした左四つからの寄りを得意とした。1970年9月場所では最高位となる東前頭筆頭まで番付を上げ、三役昇進も期待された。この場所では、中学時代の後輩であった横綱・玉の海との対戦も果たしている。しかし、110kg前後という軽量であったため本来の相撲をなかなか取らせてもらえず、3勝12敗と大敗を喫した(玉の海を含め、横綱・大関には勝つ事ができなかった)。
それ以降は幕内下位に低迷し、結局幕内在位は通算7場所に終わっている。
1972年3月場所を最後に幕内から遠ざかり、東十両12枚目の地位で迎えた1973年1月場所では6勝9敗と負け越し、関取の地位も失った。東幕下3枚目に在位した翌3月場所を以って30歳で引退し、年寄若藤を襲名。
引退後は伊勢ヶ濱部屋付きの親方として後進の指導に当たり、福岡場所担当委員を務めた他、理事も歴任した(3期務めている。退職直前は役員待遇)。
2006年11月場所中に現役時代、和晃の兄弟子であった元大関清國の7代伊勢ヶ濱が停年を迎える事になった。伊勢ヶ濱部屋は後継者候補が少なかったため、誰が部屋を継承するのか注目されていたが、唯一の部屋付き親方であった10代若藤(元・和晃)が師匠と名跡を交換し伊勢ヶ濱部屋を継承した。しかし、8代伊勢ヶ濱を襲名した元・和晃自身も当時64歳で僅か9ヵ月後の2007年8月には停年を迎えるため、直ちに後継者擁立を進めた。だが、翌2007年1月場所後に後継者擁立断念を表明。同時に伊勢ヶ濱部屋を解散し、所属する力士・行司らは同じ立浪一門(当時)の桐山部屋高嶋部屋に移籍させた。自身は桐山部屋に移籍し、部屋付きの親方として後進を指導した。
退職直前の同年8月3日には再度、若藤の名跡を保持していた元・清國と名跡交換を行い、若藤を再襲名。5日後、日本相撲協会を停年退職した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「和晃敏郎」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Katsuhikari Toshio 」があります。




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