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木之下晃明 : ミニ英和和英辞書
木之下晃明[きのした あきら]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [き]
 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber 
: [これ]
 (int,n) (uk) this
: [した, もと]
 (adv) under (esp. influence or guidance)

木之下晃明 ( リダイレクト:津崎公平 ) : ウィキペディア日本語版
津崎公平[つざき こうへい]

津崎 公平(つざき こうへい、1928年10月1日 - 1995年)は、日本の俳優映画監督脚本家である〔津崎公平 、''jlogos.com'', エア、2010年7月10日閲覧。〕〔''津崎公平、秋山駿、木之下晃明''、日本映画情報システム、文化庁、2012年7月10日閲覧。〕〔''津崎公平、秋山駿、木之下晃明''日本映画データベース、2012年7月10日閲覧。〕〔''津崎公平、木之下晃明''キネマ旬報映画データベース、2012年7月10日閲覧。〕〔''津崎公平、木之下晃明''東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年7月10日閲覧。〕〔''津崎公平''テレビドラマデータベース、2012年7月10日閲覧。〕〔''Kohei Tsuzaki''インターネット・ムービー・データベース 、2012年7月10日閲覧。〕。映画監督・脚本家としては、安芸 敬三#二階堂、232-234頁〕、秋山 駿(あきやま しゅん)〔〔幻のピンク映画発掘! 偶然から見つかった貴重なドキュメント・ポルノ・シリーズがDVD化! アップリンク、2010年7月10日閲覧。〕、木之下 晃明(きのした こうめい)と名乗った〔〔〔〔。本名は木下 伸一(きのした しんいち)〔〔。ピンク映画史に於いて、監督に挑んだ男優の魁といわれる〔。
== 人物・来歴 ==
1928年(昭和3年)10月1日、広島県呉市西愛宕町に生まれる〔〔。10歳のころ、貿易を営む父とともに上海に移る〔。第二次世界大戦終了後、満21歳を迎える1949年(昭和24年)に帰国し、早稲田大学文学部に編入するが、翌1950年(昭和25年)には中途退学した〔。読売新聞編集局に勤務したのちに、映画監督のマキノ雅弘に弟子入りし、助監督も務めている〔。
記録の上でもっとも古いものは、1960年(昭和35年)11月21日に放映を開始( - 同年12月26日)した、KRテレビ(TBSテレビ)の連続テレビ映画蒼い描点』や、1961年(昭和36年)1月16日に放映された日本テレビ放送網の単発テレビ映画『関白亭主』への出演であった〔。1965年(昭和40年)8月29日に公開された、安藤昇が主演によって映画デビューを飾った湯浅浪男監督の『血と掟』で、津崎もまた満36歳にして映画デビューした〔〔〔。本作出演を機に松竹と契約するが、この直前に湯浅監督のピンク映画『牝蜂』に出演していたことが判明し、会社からクレームが付き、同年の『やさぐれの掟』、『逃亡と掟』、および翌1966年(昭和41年)1月15日に公開された『望郷と掟』に出たあと契約を破棄された〔。ピンク映画を蔑視するような会社の言い分に我慢できず、あえて条件低劣な日陰の道を選び、同年3月に大蔵映画が配給して公開された渡辺護監督の『うまず女』に出演、以降、成人映画、とりわけいわゆるピンク映画の世界に踏み出す〔〔〔〔。同年11月、湯浅監督に誘われ台湾に渡り、台湾との合作『母ありて命ある日に』と台湾資本で撮られた『東京流浪者』『懐念的人』に出演した〔#二階堂、176-177頁〕。
芸名は1950年代に富田常雄原作の「姿三四郎」のテレビ映画で、この登場人物である"津崎公平"役をやったからとされる〔。一介の俳優の身ながら、台本もまともに読めない女優や演出もろくにできない監督に苦言を呈し、拙速によるピンク映画の濫作状況を憂いていた反骨漢であった〔。1967年(昭和42年)の大和屋竺監督『荒野のダッチワイフ』では、背広にサングラス姿で登場し脇役ながら存在感を示した〔。1968年(昭和43年)8月公開された『崩れた官能』で監督デビュー〔、広島出身らしく監督名は「安芸敬三」とした〔。同年の『絶唱』、1970年2月公開の『色欲の報酬』、6月公開の『情欲の交換』の4本を「安芸敬三」名で監督〔。その後「秋山駿」と改名し1970年8月公開の『娼婦激情の宿』から役者兼業で15本を監督したといわれる〔。『芸能人物事 明治大正昭和』では、1970年(昭和45年)に「秋山駿」の名で『絶品』という映画で監督としてデビューした〔、という旨の記述があるが、日本映画データベースおよび文化庁の「日本映画情報システム」では同作が特定できない〔〔。「秋山駿」名ではっきりと公開記録がある最も古いものは、1971年(昭和46年)1月に葵映画が製作・配給して公開した辰巳典子主演の『新手 女ぜめ裏表』である〔〔。以降、「秋山駿」の名で、1974年(昭和49年)10月に公開された『性のうずき』まで、15作のピンク映画を監督した〔〔。ピンク映画に一家言持ち、俳優業を続けながら独学でシナリオ作法を勉強した情熱と熱心さがあり、津崎同様に業界の現状打破を唱えていた木俣堯喬の製作姿勢に一脈通じて1973年(昭和48年)一時的にプロダクション鷹に参加した〔。文芸評論家秋山駿とは関係はない。
1978年(昭和53年)5月11日には、「木之下晃明」の名で監督した一般映画『人間の骨』が公開された〔〔〔〔。公開時には「マキノ雅弘門下の木之下晃明」と紹介された〔人間の骨 、日本映画情報システム、文化庁、2012年7月10日閲覧。〕〔人間の骨 、キネマ旬報映画データベース、2012年7月10日閲覧。〕。
1993年(平成5年)には、佐野和宏監督の2作『変態テレフォンONANIE』『性感極秘マッサージ 全身愛撫』に出演したが〔、1995年(平成7年)、正確な日付は不明であるが死去した〔。享年68(満66-67歳没)。
2012年(平成24年)7月現在、東京国立近代美術館フィルムセンターは、津崎の出演・監督した作品のうち、『情欲の黒水仙』、『いろの道づれ』、『腹貸し女』、『残忍(秘)女責め』、『お妾女高生』、『肉体の餌』、『痴女の戯れ』、『夜になったら殺して』、『肉体ハイジャック 殺しの前の快楽』、『色ぼけ四十八態』、『好色数え唄 私を泣かせて』、『現代姦通伝』、『脱がせて脱がせて 大勝負』、『濡れる柔肌』、『絶倫夫人』、『姐さんブルース 恍惚の花弁』、『変態性犯罪』、『女高性 不純異性交遊』、『森尾歩衣 聖水折檻』、『性感極秘マッサージ 全身愛撫』の20作の上映用プリント等を所蔵している〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「津崎公平」の詳細全文を読む




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