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朝日ジャーナル : ミニ英和和英辞書
朝日ジャーナル[あさひじゃーなる]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [あさ, ちょう]
 (n-adv,n-t) morning
朝日 : [あさひ]
 【名詞】 1. morning sun 
: [にち, ひ]
  1. (n-adv,n-t) sun 2. sunshine 3. day 
ジャー : [じゃー]
 【名詞】 1. jar 2. (n) jar
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

朝日ジャーナル : ウィキペディア日本語版
朝日ジャーナル[あさひじゃーなる]

朝日ジャーナル』(あさひジャーナル)は、1959年に創刊され1992年に廃刊となった日本週刊誌。当時の発行元は朝日新聞社
== 沿革 ==
「報道・解説・評論」を3本の柱として、『週刊新潮』創刊による週刊誌ブームと週刊誌創刊ラッシュの渦中の1959年に、田中慎次郎朝日新聞社取締役出版局長の下、創刊された〔『朝日新聞』1992年4月16日付〕〔野村尚吾『週刊誌五十年』毎日新聞社、1973年、p.320.〕〔神足裕司団塊世代と新人類の近くて遠い仲 朝日ジャーナルとSPA!の共通点と相違点」『別冊宝島345 雑誌狂時代!』宝島社、1997年、pp.36-40。〕。当初、創刊編集長には『週刊朝日』を100万部雑誌に育て上げた扇谷正造が就任する予定だったが、編集方針の食い違いから更迭され、朝日新聞大阪本社の論説委員である和田斉がその任にあたった。創刊号の1959年3月15日号は定価40円、発行部数は37万部。当時の朝日新聞社にとっては、『週刊朝日』『アサヒグラフ』に次ぐ第3の週刊誌であった〔塩澤実信「高級週刊誌『朝日ジャナール』の栄光と挫折」『雑誌100年の歩み 時代とともに誕生し盛衰する流れを読む 1874-1990』グリーンアロー出版社、1994年、pp.191-200.〕。
ベトナム反戦運動安保闘争文化大革命を背景に〔1960年代から1970年代には隆盛を極めた。「全共闘運動」とも言われた左翼運動が盛んだった1969年には、早稲田大学新聞に「右手にジャーナル、左手にマガジン(『週刊少年マガジン』)」と書かれた〔中野晴行『マンガ産業論』筑摩書房、2004年、p.103。〕〔『朝日ジャーナル』と『週刊少年マガジン』は同日発売のため同時購入することを表現したもの(石子順造『戦後マンガ史ノート』紀伊國屋書店、1980年、p.130)。〕。このフレーズは当時「手にはジャーナル、心はマガジン」〔夏目房之介『笑う長嶋』太田出版、1998年、p.188。〕「右手にジャーナル、左手にパンチ(『平凡パンチ』)」とも喧伝され〔休刊を報じる『朝日新聞』1992年4月16日付で、当時の『平凡パンチ』編集長の甘糟章は、『平凡パンチ』の併読誌は『朝日ジャーナル』がトップだったと発言。〕、左翼的思想を支持する当時の「全共闘世代」、「団塊の世代」によく購読されていた〔『毎日新聞』1992年4月16日付〕。1968年の下半期が『朝日ジャーナル』の最盛期で、平均部数は26万部であった。1967年5月には、対抗誌として恒文社から『潮流ジャーナル』という週刊誌も創刊された。
さらに1970年代に入ると学生運動は下火になり、発行部数は激減した〔。1971年3月に赤瀬川原平が連載の「櫻画報」で朝日新聞社を戯画化したことで、朝日新聞上層部は当該号を回収し2週間休刊した上で編集部の大幅な人事異動を実施。続けて1972年1月に朝霞自衛官殺害事件で編集者の川本三郎が事件の証拠物を預かり証憑湮滅罪で逮捕され、混乱に追い打ちをかけた〔「週刊誌の徹底研究 週刊誌スキャンダル事件史 1970-1982」『』1982年5月号、p.185〕〔呉智英「復活『朝日ジャーナル』の奇怪」『文藝春秋』2009年7月号、p.353〕〔宮森雅照「『朝日ジャーナル』回収事件顛末 ―雑誌にとっての編集権を考える―」『出版の検証 敗戦から現在まで 1945~1995』文化通信社、1996年、pp.116-119。〕。その後はロッキード事件の報道で繋ぎ〔、立花隆が長期間にわたって連載をしたが、販売部数の低迷が続いた。『潮流ジャーナル』も短期間で廃刊となり、『朝日ジャーナル』は類似誌のない中で刊行が続けられた〔『中日新聞』1992年4月16日付〕〔〔長尾三郎『週刊誌血風録』講談社文庫、2004年、pp.237-238。〕。
1984年1月から筑紫哲也が編集長に就任。表紙のロゴをローマ字に、浅田彰を起用した「ニューアカデミズム路線」を採用して、新人類も話題となった。一方でこの路線は、若者にすり寄る「軽チャー路線」とも言われて従来の読者の反発を呼び、「文化偏重」との批判も受けた〔篠田博之「誌面刷新『朝日ジャーナル』の内部事情」『創』1991年3月号、p.43〕〔筑紫哲也『旅の途中 巡り合った人々 1959-2005』朝日新聞社、2005年、pp.121,207,297.〕。この筑紫カラーの色濃く出た筑紫編集長時代は「筑紫ジャーナル」とも称された〔日本ジャーナリスト会議代表委員・柴田鉄治「<筑紫哲也さんを悼む> 関心の広さと絶妙なバランス感覚 」『ジャーナリスト』2009年1月25日号。〕。商業的には6万部台だった部数を9万部に引き上げた〔篠田博之「誌面刷新『朝日ジャーナル』の内部事情」『創』1991年3月号、p.47〕。
しかしこの路線も長続きせず、結局筑紫は1987年を持って編集長を退任。その後の伊藤正孝時代はリクルート事件昭和天皇の重体と崩御などの大事件があった時期は部数を維持したが、後半は部数を落としていった〔。1990年5月から初の女性編集長として下村満子が就任して誌面を刷新。国際記事と「女性もの」を新たな売りにし、数千万円をかけてテレビCMも流した〔〔。しかし、1990年前半期の平均部数は6万部と低迷を続け、さらに6万部を割って年間数億円の赤字を生む状況で改善の目処がないため、役割を終えたことを理由に〔1992年5月29日号を最終号として、下村満子の代で休刊となった〔。1988年に朝日新聞社が新たに週刊誌『AERA』を創刊し、朝日新聞社が4つの週刊誌を抱える過当競争も休刊の一因といわれる〔下村満子「本誌の休刊について」『朝日ジャーナル』1992年4月24日号(『朝日ジャーナルの時代』に再録)〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「朝日ジャーナル」の詳細全文を読む




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