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有賀幸作 : ミニ英和和英辞書
有賀幸作[あるが こうさく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [う, ゆう]
  1. (n,vs) possession 
: [さち]
 【名詞】 1. happiness 2. wish 3. fortune 
: [さく]
  1. (n,n-suf) a work 2. a harvest 

有賀幸作 : ウィキペディア日本語版
有賀幸作[あるが こうさく]

有賀 幸作(あるが こうさく、1897年明治30年)8月21日 - 1945年昭和20年)4月7日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍中将戦艦大和最後の艦長として有名である。長野県南信地方に多い姓である有賀は、「ありが」ではなく「あるが」と読む例が多いが、当人は相手が聞き返すことを嫌い、ありがの読み方で通した〔生出寿『戦艦「大和」最後の艦長』114頁〕。軍帽裏のネーム刺繍もアリガとしていた。
== 経歴 ==
長野県上伊那郡朝日村(現辰野町)に金物商・村長、有賀作太郎の長男(惣領)として生まれる。父作太郎は、旅順攻囲戦に参加して二〇三高地戦で殊勲をあげ、功六級金鵄勲章と多額の年金を授かるにいたった勇士だったが、息子の軍人志願には反対した〔生出寿『戦艦「大和」最後の艦長』17頁〕。有賀は活発な少年として育ち、長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を卒業。一年上の先輩に、中沢佑中将や、後に沖縄特攻で第2水雷戦隊共に戦った古村啓蔵がおり、作太郎は古村の海軍兵学校入学時の保証人でもあり、海軍兵学校に入る前から交流があった〔生出寿『戦艦「大和」最後の艦長』19頁〕。
実家の平野屋金物店は有賀の相続放棄後、弟の次郎が継ぐはずであったが、父、次郎、さらに三男の正次、妹のふさへが相次いで病死したため、名義上家督を継ぎ、金物店店主となっている。なお実際は母親が一人で切り盛りしており、大和沈没時期には閉店していた。
1917年大正6年)11月24日海軍兵学校卒(45期、順位57/88)。同期には、空母瑞鶴大鳳の艦長を務めた菊池朝三、軍令部第一部長の富岡定俊、大和の艦長で後に第2艦隊参謀長となる森下信衛、上記の古村啓蔵がいる。
初代神風型駆逐艦水無月(380トン)から経歴をスタートさせ、水雷戦隊指揮官として経験を重ねた。1922年に戦艦長門の四番砲台長に任命されたが、規則のうるさい戦艦勤務に戸惑うこともあった〔生出寿『戦艦「大和」最後の艦長』31頁〕。1923年大尉昇進、翌年1月27日に宮坂好子と結婚、10月に長男の正幸が誕生した。12月、峯風型駆逐艦秋風の水雷長に就任し、川内型軽巡洋艦神通の水雷長。この時美保関事件に遭遇し、水城圭次艦長の自決を経験した。1927年12月那珂の水雷長、1928年6月7日長女の良江が誕生、12月10日球磨型軽巡洋艦木曾の水雷長に転任する。1929年11月、若竹型駆逐艦夕顔の艦長に任ぜられ、初めて船の総責任者となった。航海長は当時の有賀を見て「これが駆逐艦乗りか」と感嘆した〔生出寿『戦艦「大和」最後の艦長』41頁〕。
1930年12月、有賀は若竹型駆逐艦芙蓉の艦長に転じ、中国大陸沿岸警備任務についた。1932年、峯風型駆逐艦太刀風秋風の艦長を兼務する。1933年11月、神風型駆逐艦松風の艦長、1934年11月に新鋭の吹雪型駆逐艦の艦長となる。有賀はようやく第一線級戦力の艦長をまかされたのである〔生出寿『戦艦「大和」最後の艦長』69頁〕。1935年10月、艦長勤務を離れ、鎮海警備府参謀を命じられた。翌年9月17日、次女公子が誕生した。12月、軽巡洋艦川内の副長勤務となる。1938年12月、掃海艇6隻からなる第一掃海隊司令に任命され、日中戦争に加わった。掃海任務だけでなく、上陸支援や中国軍掃討任務もこなしたため、中国側から懸賞金をかけられ、その値段が徐々に上がっていったという一幕もある〔生出寿『戦艦「大和」最後の艦長』85頁〕。
1939年11月、第二艦隊第二水雷戦隊第十一駆逐隊司令(初雪白雪)司令となる。1940年11月、大佐に昇進。1941年6月18日、第四駆逐隊司令に任ぜられ、最新の陽炎型駆逐艦4隻(萩風野分舞風)を指揮下においた。11月15日、有賀は遺書を書いた〔生出寿『戦艦「大和」最後の艦長』101頁〕。好子が遺書を読むのは、1945年9月20日に戦死内報が届いた時である〔生出寿『戦艦「大和」最後の艦長』103頁〕。
机上の理論より実戦での経験を大切にする当時としては数少ない軍人の一人であった〔生出寿『戦艦「大和」最後の艦長』11-12頁〕。豪放大胆な性格で、戦上手な指揮官として部下からの信頼も厚い人物であった〔生出寿『戦艦「大和」最後の艦長』9-10頁〕。
太平洋戦争緒戦では、第四駆逐隊司令として近藤信竹海軍中将指揮する南遣艦隊に所属し、マレー作戦を支援した。12月8日朝、野分に命じてノルウェー船を拿捕する。日本軍のシンガポール占領の後、ジャワ海に進出した。3月1日、有賀指揮下の嵐と野分は商船3隻(4000t、3000t、3000t)、油槽船2隻(1500t)を撃沈し〔生出寿『戦艦「大和」最後の艦長』120頁〕、商船ビントエーハン号(1000t)を拿捕。さらにイギリスの駆逐艦ストロングホールド〔生出寿『戦艦「大和」最後の艦長』121-122頁〕、アメリカの砲艦アッシュビル〔を沈めた。3月4日、重巡洋艦愛宕と共同で豪州護衛艦ヤーライ、油槽船1隻を撃沈し、オランダ商船チャーシローアを拿捕した〔生出寿『戦艦「大和」最後の艦長』124頁〕。一連の戦闘を「チラチャップ沖海戦」という〔生出寿『戦艦「大和」最後の艦長』125頁〕。ミッドウェー海戦に参加。ミッドウェー海戦では、大破炎上した航空母艦赤城を指揮下の駆逐艦野分、嵐の魚雷によって沈没処分するという悲劇を味わった。有賀は初めて撃った魚雷が赤城に対するものだったことを嘆き続けた〔生出寿『戦艦「大和」最後の艦長』165頁〕。その後ソロモン方面の諸海戦に参加。10月26日の南太平洋海戦では 被弾した翔鶴から南雲忠一長官を迎え、一時的に中将旗を掲げた。1943年3月1日、重巡洋艦鳥海の艦長となり、南方に進出する。アメリカ軍機から10回近く襲撃されたが、高射砲長との息のあった連携で鳥海は被弾しなかった〔生出寿『戦艦「大和」最後の艦長』227頁〕。1944年4月21日、デング熱に罹患し内地へ帰還。水雷学校(横須賀)教頭を拝命する。しかし実戦畑を歩いてきた有賀にとっては机上の学問を教授しなければならない教頭の職は本意ではなかったらしい〔生出寿『戦艦「大和」最後の艦長』254頁〕。
1944年昭和19年)11月6日、大和の艦長を命じられる〔生出寿『戦艦「大和」最後の艦長』260頁〕。(実際に着任したのは12月10日)久しぶりの海上勤務である上に、帝国海軍の象徴・宝刀とも言える大和の艦長に補されたのが非常に嬉しい事であったらしく、海兵団にいた長男の有賀正幸宛に秘匿艦であり、本来ならば「ウ五五六」と暗号で記述するべきであるにも関わらず「大和艦長 有賀幸作」と堂々と艦名を書いた手紙を送っている〔生出寿『戦艦「大和」最後の艦長』270頁〕。手紙には『大和艦長拝命す。死に場所を得て男子の本懐これに勝るものなし』と書いてあり、これを読んだ正幸は、有賀が死を覚悟したことを悟ったという〔生出寿『戦艦「大和」最後の艦長』271頁〕。
大和では、有賀の豪放磊落な性格(その時の逸話は後述)は大和乗組員に好意を持って受け入れられたという。連日の訓練で常に先頭に立ち、防寒コートも手袋着用せずに艦橋に立つ有賀の姿は畏敬の念で見られた〔生出寿『戦艦「大和」最後の艦長』274-275頁〕。一方で、海軍兵学校同期生の古村啓蔵(第二水雷戦隊司令官)は、有賀が「燃料不足で主砲の訓練さえできない」と弱音を吐くのを見て驚いたという。4月7日坊ノ岬沖海戦にてアメリカ海軍空母艦載機386機の攻撃を受け、大和は沈没した。有賀も沈没した大和と運命を共にした。戦死時は海軍大佐であった。享年49。戦死後、4月7日付で海軍中将に昇格した。
墓所は長野県辰野町見宗寺。なお、近くの法性(ほっしょう)神社に、戦う大和と有賀艦長の肖像レリーフで飾られた自然石の記念碑が建立されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「有賀幸作」の詳細全文を読む




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