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日本サッカー協会 : ミニ英和和英辞書
日本サッカー協会[にほんさっかーきょうかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [にち, ひ]
  1. (n-adv,n-t) sun 2. sunshine 3. day 
日本 : [にっぽん, にほん]
 【名詞】 1. Japan 
: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 
カー : [かー]
 【名詞】 1. car 2. (n) car
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [きょう]
  1. (n-suf,n-pref) cooperation 
協会 : [きょうかい]
 【名詞】 1. association 2. society 3. organization 4. organisation 
: [かい]
  1. (n,n-suf,vs) meeting 2. assembly 3. party 4. association 5. club 

日本サッカー協会 : ウィキペディア日本語版
日本サッカー協会[にほんさっかーきょうかい]

公益財団法人日本サッカー協会(にほんサッカーきょうかい、、略称:JFA)は、日本サッカー界を統括し代表する団体として、サッカー競技の普及および振興を図り、もって国民の心身の健全な発達に寄与することを目的とする。
日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)や日本フットボールリーグ(JFL)、日本女子サッカーリーグ(なでしこリーグ)の試合や天皇杯全日本サッカー選手権大会皇后杯全日本女子サッカー選手権大会などの公式サッカー大会を主催する。プロアマの活動を一本化して管理している。なお、現在のJFAは独立採算制であり、国の税金は一切入っていない。現在、サッカーくじtotoから3億円以下程度の助成金が入るようになったが、これはJFA全収入の3%以下でしかない(2010年度)。JFAの予算および決算〔JFA理事会報告-JFA公式HP 〕〔JFA予算書・決算書-JFA公式HP 〕、その活動〔JFA事業計画・報告-JFA公式HP 〕についてはJFA公式ウェブサイトや機関誌で公開されている。詳しくはJFA財務内容の項で後述する。2012年4月1日より財団法人から公益財団法人へ移行し、文部科学省から完全に独立した〔小倉純二日本サッカー協会会長コラム「今日もサッカー日和」第31回-日本サッカー協会公式HP_2012年4月2日 〕。公益財団法人化のメリットなどの詳細も、同じくJFA財務内容の項で後述する。
== 概要 ==
サッカーに関する上位組織としては国際サッカー連盟(FIFA)およびアジアサッカー連盟(AFC)にそれぞれ所属している。日本サッカー協会はアジアサッカー連盟(AFC)創設(1954年5月8日)メンバーであり〔About AFC(AFCについて 歴史など説明)-AFC公式HP英語版2007年9月6日 〕、創設年の10月にAFCに加盟している〔アジアサッカー連盟(AFC)って何?-日本サッカー協会公式HP 〕。また、上位組織ではないが、周辺7協会と共に2002年5月28日東アジアサッカー連盟(EAFF)を創設し、同時に加盟している〔東アジアニュースリリース 東アジアサッカー連盟発足 初代会長に岡野JFA会長-東アジアサッカー連盟公式HP-2002年5月30日 〕。オリンピック競技ないしはスポーツの一つとして国際オリンピック委員会(IOC) - 公益財団法人日本オリンピック委員会(JOC)・公益財団法人日本体育協会にも所属する。日本サッカー協会の下位組織としては日本国内を大きくブロックに分けた9地域(北海道・東北・関東・北信越・東海・関西・中国・四国・九州)のサッカー協会と、各都道府県毎に置かれた46の都府県(北海道は地域の協会も兼ねる)サッカー協会を有し、国内トップリーグであるJリーグの1部(J1)所属チームから、社会人、学生チームなどのアマチュアチームに至るまで、必ずいずれかの都道府県サッカー協会に所属するかたちとなっている。
2002年10月、川淵三郎がキャプテン(会長)就任後、日本サッカーの基盤強化を図るため、「JFAキッズプログラム」「JFAファミリーフットサルフェスティバル」など幼児期からの政策や、女子サッカーの強化などを盛り込んだ「キャプテンズ・ミッション」を発表した(後にプレジデンツ・ミッションへ改称)。2005年、JFA理念実現のための『JFA2005年宣言』を発表し、その中で中期目標として「2015年に世界のトップ10入り」、長期目標として「2050年までにFIFAワールドカップ優勝」という目標を立てている(詳細はJFA2005年宣言の項で後述)。
サッカー日本代表人気もあって、スポンサーからの巨額の資金を受けており、2006年度予算は日本オリンピック委員会の2倍以上の157億円に達した。さらに、2010年度予算は前年度より約14億円多い約176億円を計上している。キリンホールディングスキリンビールキリンビバレッジ)と2007年4月からの8年間で推定総額120億円(年間15億円)でオフィシャル(公式)スポンサー契約を結び、他、アディダスジャパンと2007年4月から向こう8年間で総額160億円(年間20億円)のオフィシャル(公式)サプライヤー契約の締結(更新)、広告代理店の電通と2007年から向こう8年間で総額240億円(年間30億円)のオフィシャル(公式)スポンサー契約の契約(更新)が報道されるなど、財政難も解消している。
2006年6月7日、川淵三郎キャプテン(会長)が「日本およびアジアのサッカー発展の貢献と2002年FIFAワールドカップの成功」を称えFIFAよりFIFA功労賞を受賞した。これでJFAからは6代目の藤田静夫元会長に続く2人目の快挙である。なお、同賞は、ジーコ元日本代表監督も1996年に受賞している。
2012年1月9日2011年度FIFAバロンドールにおいてFIFAフェアプレー賞を受賞した。
公益法人制度改革に伴い、2011年9月、財団法人から公益財団法人への移行を申請し〔サッカー協会、公益法人化が内定 4月1日に登記へ-47NEWS 〕、2012年4月1日より公益財団法人となり、それに伴い、文部科学省から完全に独立した(2012年3月31日までは、文部科学省が日本サッカー協会の監督官庁であり、財務諸表などを文部科学省に届ける必要があった)〔(後述)。
2012年12月12日、国際サッカー連盟(FIFA)公式ウェブサイト上で、大仁邦彌現JFA会長が改めて、JFA2005年宣言の遵守及び中長期目標の達成を表明した〔Japan FA boss bullish about future-FIFA公式HP2012年12月12日 〕(後述)。
== 設立までの経緯==
1918年(大正7年)、日本にはまだサッカー(当時は「蹴球」=しゅうきゅう=と表記)を統括する組織はなく、日本一を決める全国大会も一度も実施されてはいなかった。この年の1月に大阪の豊中で行われた日本フートボール優勝大会(関西地区のみの大会。現在の全国高等学校サッカー選手権大会の前身にあたる)、同年2月に関東地区で「関東蹴球大會」、名古屋では旧制高等学校などが参加した「東海蹴球大會」が別々に開催され、1918年以降にも引き続いて開かれた。東京で行われた「関東蹴球大會」にはチャールズ・エリオットイギリス帝国(現イギリス)大使も列席し、その模様を本国に伝えた。これら1918年に行われた一連の旧制中学師範学校および旧制高等学校を中心とした別々の地域大会の開催の模様をイギリス帝国の新聞が「日本にサッカー協会が発足し、全日本選手権大会が始まった(別々の地域大会を全国大会予選だと勘違いした)」と誤って報道した。
1919年、チャールズ・エリオット大使の報告に加え、その新聞記事を見たイングランドサッカー協会(以下FA)は、イギリス帝国大使館のウィリアム・ヘーグ(William Haigh)書記官が日本の全国大会優勝チームに授与するためのFA杯の寄贈を提案したこともあり、「日本蹴球協會の設立を祝して銀杯を寄贈します。全國大會の優勝チームに授與して下さい」といったメッセージを添えて、イギリス帝国大使館を通じて日本にシルバーカップ(以下銀杯と略すことあり)を寄贈することを決め、1919年1月にロンドンから船便で日本に向け送った。3か月かけて、シルバーカップはイギリス帝国大使館に届けられた〔Web版サッカー批評(Vol.11)-スポーツナビ2003年9月12日 〕。FAは当時、オーストラリアニュージーランド南アフリカなどイギリス帝国各地の協会に、ほぼ同じデザインの銀杯を贈っている〔。1902年(明治35年)日英同盟を結んで以来、東アジアおよび太平洋地域の覇権をめぐり、日本は当時、イギリス帝国にとって重要な同盟国だった。つまり、銀杯の寄贈には、当時の日本がイギリス帝国に重視されていた、あるいはイギリス帝国加盟国に準ずるものとみなされていたことが背景としてある。
FAが日本に銀杯を寄贈したという3月12日付けの東京朝日新聞の記事を、東京高等師範学校東京教育大学を経た、現在の筑波大学)の校友会蹴球部長を務めていた内野台嶺が読み、そのカップの行き先を思案することとなる。
しかし、なかなか良案が浮かばず、東京高等師範学校の校長で当時、大日本體育協會の会長も兼務していた戦前の日本スポーツ界の重鎮嘉納治五郎を訪ねた。そして「''この際、急いで設立せよ''」と、内野は嘉納から厳命を受ける。内野はその後、イギリス大使館のウィリアム・ヘーグ書記官(そのまま大日本蹴球協會初代賛助会員となった)〔と体育協会の各理事の協力を仰ぎ、規約・規則の作成と役員人事を進め、1921年9月10日に大日本蹴球協會を創立。初代協会会長に嘉納治五郎の信任が厚く、大日本體育協會の筆頭理事を務めていた今村次吉が就任した。組織運営、競技規則の翻訳や指導書の作成などは、後に1964年東京オリンピックの準備委員長を務めた新田純興が行った。
シルバーカップは、嘉納治五郎が1919年3月28日に直接イギリス大使館に出向いてグリーン駐日大使から受け取りを済ませていたが、しばらくは大日本體育協會に預けられており、大日本蹴球協會設立後、シルバーカップを正式に受け取ることとなった〔『週刊サッカーダイジェスト 1996年12月18日号(345号)』 知られざる日韓サッカー交流史 第2回 〜日韓それぞれの1921年〜〕。
なお、この大日本蹴球協會設立のきっかけとなったシルバーカップは現存していない。太平洋戦争の戦況が悪化すると、日本政府は戦争遂行のために、広く国民に鉄や銅、貴金属などの拠出を求めるようになった。これよりさかのぼること1942年4月に戦時体制強化の為に大日本體育協會が財団法人大日本体育会に再編成され、大日本蹴球協會は他競技団体と共にその部会となり(大日本蹴球協會は蹴球部会となった)、一時消滅していた。1945年(昭和20年)1月、大日本体育会は、政府が進めている銀回収に協力することを決め(銀器献納)、体育会および各部会で保有している賞杯などを政府に供出した〔JFA沿革・歴史-JFA公式HP 〕。その際に、シルバーカップは姿を消したといわれているが、真相は不明である(銀器献納からわずか7か月後に、日本が終戦。その後、内務省関係の役所でシルバーカップを見かけたとする話もある)〔。
なお、そのシルバーカップが2011年8月にFAの手で復元され、改めて日本サッカー協会に贈呈される運びとなり〔92年前寄贈銀製カップ復元、英で贈呈式 日刊スポーツ 2011年8月3日閲覧〕、8月23日にイングランド・ウェンブリー・スタジアムにて贈呈式が行われた〔幻のカップ復元 FAから日本協会に贈呈 日刊スポーツ 2011年8月24日閲覧〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「日本サッカー協会」の詳細全文を読む




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