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恒藤恭 : ミニ英和和英辞書
恒藤恭[つねとう きょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 

恒藤恭 : ウィキペディア日本語版
恒藤恭[つねとう きょう]

恒藤 恭(つねとう きょう、男性、1888年12月3日 - 1967年11月2日)は、日本法哲学大阪市立大学名誉教授。法学博士従三位勲二等旭日重光章学士院会員芥川龍之介の親友、瀧川事件京都帝国大学法学部を辞任した教官の一人としても知られる。旧姓は井川。息子の恒藤敏彦は京都大学名誉教授物理学)、恒藤武二同志社大学法学部教授(法哲学と労働法担当)。
== 生涯 ==

=== 人物 ===

島根県松江市に兄弟姉妹8人の第5子、次男として生まれる。父・井川精一は漢詩、兄・亮は英語を好み漢文、英語の書物が身近にある環境で育った。文学少年で、島根県立第一中学校(後の松江北高等学校)時代から雑誌に随筆、短歌、俳句などの投稿をはじめる。「消化不良症」で体調が悪化し、中学卒業後3年間の療養生活を送る。療養中、小説「海の花」で『都新聞』(東京新聞の前身の一つ)の懸賞一等に当選し350円の懸賞金を得、「井川天籟」の筆名で『都新聞』に連載された。懸賞金を得た恭は神戸市の神戸衛生院に1ヶ月半入院し、後に『白樺』最年少同人となる郡虎彦と出会う。
健康を回復した恭は、1910年に父・精一の死を経て、文学を志し上京、都新聞社文芸部所属の記者見習となる。第一高等学校の入学試験に合格し、第一部乙類(英文科)に入学。第一部乙類の同期入学には芥川龍之介久米正雄松岡讓佐野文夫、同年齢の菊池寛らもいた。ちなみに入学後に一高で聴いた徳冨蘆花の「謀叛論」に大きな影響を受けている。2年生になり寮で同室となった芥川龍之介、長崎太郎、藤岡蔵六成瀬正一らと親交を深めた。恭は一高時代も投稿を続け原稿料を稼いだ。少年雑誌『中学世界』には大学院時代まで「鈴かけ次郎」の筆名で投稿を続けている。またこの時期は思想的には、ロシア文学やフランス文学などの影響とともに、ベルクソンを中心としたいわゆる、「生」の哲学の影響を色濃く受けていると言える。
1913年、一高第一部乙類を首席で卒業、京都帝国大学法科大学政治学科に入学。恭は文科から法科への進路変更について、芥川との交流で自身の能力の限界を知ったとのちに述べている。京都帝大では佐々木惣一の影響を受けた。芥川とは文通による交流が続いた。芥川の勧めで第三次『新思潮』に載せるジョン・M・シングの「海への騎者」 (''Riders to the Sea'') を翻訳した。また、失恋で失意にあった芥川を故郷の松江に招いている。
1916年11月に恒藤規隆の長女・まさと結婚、婿養子になり恒藤姓となる。恒藤規隆は日本最初の農学博士の一人で、沖大東島(ラサ島)で燐鉱石を発見しラサ島燐礦合資会社(後のラサ工業)の設立人物である。恭は新カント派の影響を受け法哲学に関心を持つようになる。河上肇末川博らとも交流した。
同志社大学法学部教授時代には土田杏村と交流し、1921年に長野県上田市の信濃自由大学で法哲学の講義を行っている。
京都帝大助教授時代の欧州留学出発前、芥川と会いフランス滞在中に来るよう誘ったが実現しなかった。留学は見学主体のもので旅行にも時間を費やした。1927年7月、芥川龍之介自殺。
京都帝大法学部教授時代の1933年、赤化思想だとして瀧川幸辰教授の著作『刑法講義』、『刑法読本』が発売禁止処分となり文部省から瀧川教授の罷免が要求され、学問の自由を主張し京大法学部教官全員が辞表を提出した瀧川事件において、松井元興が京大総長に就任し佐々木惣一、宮本英雄、森口繁治、末川博、休職扱いの瀧川幸辰の辞表を受理し、他の者には辞表の撤回を求めたが、恒藤恭と田村徳治は辞表を撤回しなかった。事件中、恭は雑誌『改造』に「死して生きる途」と題する文章を発表している。
京都帝国大学辞任後、菊池寛から文藝春秋社に誘われるが、大阪商科大学(後の大阪市立大学)学長河田嗣郎の招聘に応じ9月に末川博と共に大阪商大専任講師となる。立命館大学非常勤講師も兼任し、当時立命館大学学長(事務取扱)だった織田萬の後任学長候補として新聞に取りざたされたこともあった(『日出新聞』一九三七年十二月十八日付)。1930年代には思想的には従来の新カント派的な立場を離れ、マルクス、エンゲルスの唯物史観をも批判的に摂取した「恒藤法哲学」とも称される独自の法哲学を構築した。
1949年に就任し、1957年に辞任するまでの大阪市立大学長時代には、終戦後進駐軍に全面接収された杉本学舎の返還、総合大学としての大阪市大の基盤固めに努めた。また学外においても、学界においては日本法哲学会理事長を務める他、末川博とともに平和問題談話会の関西有力メンバーとして活躍、戦後日本における平和憲法と民主主義の定着に尽力した。
没後弟子筋の研究者らによって、生前には書物としては未刊行であった『法の本質』(1968年、論文としての初出は1935年)ならびに、同じく生前に執筆された様々な論文を収集、編集した『哲学と法学』(1969年)、『法の精神』(1969年)、『法と道徳』(1969年)が刊行された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「恒藤恭」の詳細全文を読む




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