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志村喬 : ミニ英和和英辞書
志村喬[しむら たかし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こころざし]
 【名詞】 1. will 2. intention 3. motive 
: [むら]
 【名詞】 1. village 

志村喬 : ウィキペディア日本語版
志村喬[しむら たかし]

志村 喬しむら たかし1905年明治38年)3月12日 - 1982年昭和57年)2月11日)は、兵庫県朝来市出身の俳優である。本名は島崎 捷爾しまざき しょうじ)。実兄の島崎敬夫は横浜ゴム社長を務めた人物。
舞台俳優を経て映画俳優となり、戦前は脇役として時代劇などで活躍。戦後も東宝を中心に数多くの作品に出演。生涯で出演した映画の本数は443本に上る〔『日本映画人名事典』 キネマ旬報社〕。黒澤明監督作品には欠かせない俳優であり、『生きる』『七人の侍』を始め、彼の監督作の殆どに出演している。また、『ゴジラ』などの東宝特撮映画の常連でもある。
== 来歴・人物 ==

=== 誕生から舞台俳優 ===
1905年(明治38年)3月12日兵庫県朝来郡生野町(現在の朝来市生野町)口銀谷生野鉱山社宅(甲社宅)に生まれる。父は三菱生野鉱業所の冶金技師で、祖父は土佐藩主・山内容堂小姓から250石取りの祐筆に上がり、鳥羽・伏見の戦いには隊長として出陣した経歴を持つ武士であった。
1911年(明治44年)に生野尋常小学校に入学、きかん気のガキ大将だったが、その反面6年間通して優等生で過ごし、1917年大正6年)、旧制神戸一中(現兵庫県立神戸高等学校)に入学、その後父親が宮崎に単身転勤となり、丁度その頃の志村は軽い肺病のため2年間進級が遅れたことから、母や兄弟と共に父のもとに合流し、それに伴い宮崎県立延岡中学校(現宮崎県立延岡高等学校)へ転校する。在学中は英語が得意で、文学に憧れて同人雑誌に加わって詩を寄稿する一方、ボート部に入り校内有数のボート漕ぎの名手として活躍する。
同中学校卒業後の1923年(大正12年)に関西大学予科に入学するが、まもなく父が退職したことから学資の援助が得られなくなり、仕方なく夜間の専門部英文科に転ずるとともに大阪市水道局の臨時職員として生計を立てる。
この頃、英文科の講師に劇作家の豊岡佐一郎シェイクスピア研究家の坪内士行がいたことから演劇熱が芽生えはじめ、大学の演劇研究会に参加し、さらに1928年(昭和3年)には豊岡を演出家に頼み、自ら幹部としてアマチュア劇団・七月座を結成する。しかし、芝居に熱中するあまり市役所は欠勤続きでついにはクビとなった。そこで大学も中退して、本格的に役者の道を目指し、七月座のプロ化を図り巡業などをするが、大赤字となり失敗した。
大阪に戻ってJOBK(NHK大阪放送局)のラジオ劇に声優として出演したり、厚紙切りなどで食いつないでいたが、それだけではどうしても生活が出来ず、1930年(昭和5年)に豊岡の友人で、のちに東宝撮影所長になった森田信義の世話で五月信子の近代座に入り、職業俳優として舞台に出演する。以降は日本各地をはじめ、遠く上海青島天津大連釜山にまで巡業した。
しかし、この頃から同じような芝居が続いて、気持ちや生活態度はすさみ、演技も惰性になっている自分に気付き、巡業先で一座を離れ、再び大阪に戻って、1932年(昭和7年)に剣戟の新声劇や翌年に旗揚げした新選座の舞台に立つが、芝居の世界は景気が悪くなる一方で、この頃主流になり始めたトーキー映画に舞台で鍛え上げた実績を生かせるかもと思い、映画俳優の転向を決意する。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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