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張本勲 : ミニ英和和英辞書
張本勲[ちゃん ふん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 

張本勲 : ウィキペディア日本語版
張本勲[ちゃん ふん]

張本 勲(はりもと いさお、1940年6月19日 - )は、広島県広島市出身の元プロ野球選手外野手)、野球解説者野球評論家日本プロ野球名球会会員、韓国野球委員会(KBO)コミッショナー特別補佐官。在日韓国人二世であり、本名は張 勲(読みがな:チャン・フン、ハングル:)〔『プロ野球人名事典2003』(「本名・張勲」と表記。読みがな・ハングル表記については明記されず)。〕。
日本プロ野球史上唯一の3000本安打を達成した。500本塁打300盗塁を達成した日本で唯一の選手でもある。
愛称は「ハリさん」「張さん」〔『週刊 御意見番』コーナーのページ - TBS『サンデーモーニング』公式サイト内〕、あるいは「ハリ」、「ハリやん」。
== 経歴 ==

=== 生い立ち ===
両親は韓国慶尚南道昌寧郡大合面出身〔「シリーズ劇的人間 張本勲とその母 『中傷のヤジは許さない!』 復活ジャイアンツの目 被爆選手36年の汗と涙」『サンデー毎日』1976年6月20日号、毎日新聞出版、p114-121〕〔吉田豪『男気万字固め』エンターブレイン、2001年、p90〕。母親は身重のまま、3人の子を連れて当時日本領だった朝鮮から海を越えて内地に渡り、広島で勲を生んだ〔「新・家の履歴書 張本勲」『週刊文春』2009年3月26日号、文藝春秋、p90-93〕。一家は六畳一間のトタン屋根バラックに住んだ〔。4歳の冬、土手でとんど〔歌代幸子「私と母(1) 張本勲」『新潮45』2009年1月号、新潮社、p148-154〕を囲んでいた際に、急にバックしてきたトラックを避けようとしたところバランスを崩し、とんどに右半身から飛び込む形になり、右手の親指、ひとさし指、中指以外の自由を失う大火傷を負う〔〔『別冊宝島 1339 プロ野球無頼派選手読本』〕〔澤宮優『プロ野球残侠伝―サムライ達のいる風景』パロル舎、2009年、p25-26〕。
1945年8月6日、5歳の夏、爆心地から約2kmの広島市段原新町(現在の南区段原)で被爆〔〔核廃絶訴える張本氏が始球式「魂を感じて投げました」 スポニチ 〕〔毎日新聞、2008年8月2日、13頁。読売新聞、2007年8月4日、21頁。〕。比治山の影となっていた段原は直接の熱線が届かなかったが、爆風に見舞われ家は倒壊した〔〔。この際、勤労動員で比治山の西側にいた長姉は、大火傷を負い数日後に亡くなった〔〔。
終戦後、父親が朝鮮半島に戻り、生活基盤を整えてから一家も呼び寄せることになっていたが、父親が帰国後急死し、またヤミ船が下関沖で転覆した事件を受けて、母親が子供3人の身を案じて帰国を諦めることになった〔。母親は闇市で牛や豚の臓物を仕入れて自宅で大工や工員相手にホルモン焼き屋を始めた〔〔。
子供の時から体が大きく、ガキ大将としていつも大勢の子分を連れて歩いた。広島市立比治山小学校5年のときに町内の野球チーム(同世代のチームではなく、社会人が趣味で集まっていたチーム)に誘われたのをきっかけに野球を始める〔スポーツニッポン連載『張本勲の我が道』(3)、2008年11月13日〕。当初は右投げ左打ちだったが、右手の怪我の影響で変化球を投げづらかった(鷲掴みにしか出来ない)ことから、サウスポーに転向〔。利き手を変える大改造を行なった。
水泳が一番得意だったが、進学した段原中学校には水泳部がなく、仕方なく野球部に入部〔〔。段原中時代の2年生のときにレギュラーになり、エースで4番打者として広島県大会で優勝した〔。中学時代は野球とケンカに明け暮れ、『仁義なき戦い』のモデルになったような人たちにも憧れ、「あのまま広島にいたらヤクザになっていたと思う」とも話している〔『クメピポ! 絶対あいたい1001人』、毎日放送、2009年7月15日〕〔張本勲氏 壮絶半生語る!NHK・BSハイビジョン9・3放送 ― スポニチ 〕。
この頃、広島カープ広島総合球場の場外の木によじのぼり、よく試合の無料見物をしていたという〔〔読売新聞連載『時代の証言者 最多安打 張本勲』(5)、2009年1月27日〕〔吉田豪『男気万字固め』エンターブレイン、2001年、p105-106〕。その折に覗き見た読売ジャイアンツの宿舎の食事風景が、その後の張本の人生を大きく変えることとなった〔〔。戦後の物資不足や飢餓をまだ引きずる時代に、選手たちは分厚い肉を食べ、桐箱に入った贈答品として当時は珍重されることも多かった生卵を3つも4つも茶碗に放り込んでいたのである〔〔スポーツニッポン連載『張本勲の我が道』(4)、2008年11月14日〕。以来、張本のプロ野球選手への憧れは増大し、「トタン屋根の長屋から抜け出すにはこれしかない」〔、「母親に広い家をプレゼントする」、「美味しい食べ物を腹一杯食べる」という夢を胸に来る日も来る日も自宅近くの猿猴川土手に吊るした古タイヤに向かってバットを振り続け、野球へと打ち込んでいった〔〔康煕奉『在日はなぜスポーツに強いのか』KKベストセラーズ、2001年、ISBN 4584120099 p16-31〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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