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平野富二 : ミニ英和和英辞書
平野富二[ひらの とみじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たいら, ひら]
 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm
平野 : [へいや]
 【名詞】 1. plain 2. open field 
: [の]
 【名詞】 1. field 
: [とみ]
 【名詞】 1. wealth 2. fortune 
: [に]
  1. (num) two 

平野富二 : ウィキペディア日本語版
平野富二[ひらの とみじ]
平野富二(ひらの とみじ、1846年10月4日弘化3年8月14日)- 1892年明治25年)12月3日)は、実業家。石川島造船所(現IHI)創立者。
== 略歴 ==
富二は、矢次豊三郎とみね(三原家から養嗣となった長崎唐人屋敷御役医外科筆頭、神辺隆庵(謙)と草野千秋の女マスとの間に生まれた神辺の次女である)の間に生まれた次男である。兄重平は矢次家を嗣ぎ、次男富二は平野家に入った。
1861年(文久元年)に飽の浦にあった幕府長崎製鉄所機関手見習を仰せ付けられ、鋳造活字の本邦始祖本木昌造に師事してチャーチル号機関手となり、1866年(慶応2年)に回天艦機関手として下関戦争に殊勲を得た。
1869年(明治2年)に新政府の長崎製鉄所兼小菅造船所(ソロバンドック)長となり、後の三菱造船所の基礎を築いた。1871年(明治4年)にこれを辞し、恩師本木昌造の依嘱もだしがたく、東京に進出し、1872年(明治5年)に築地活版所を創立し、活版印刷の企業スタートを切った。後の救世軍山室軍平らは富二の活版印刷所で働いた小僧であった。長崎における新町活版所よりも大きく発展し、日本文化に貢献すること甚大であった。毛筆で書かれてきた官庁、会社、学校の文書は悉く印刷所へ移転するにいたった。
鋳造活字製造及び印刷事業に成功するや、1876年(明治9年)に石川島に民間事業としての造船所を創設し、その社長として恩師本木昌造の遺児を迎えた。富二はさらに機械製造、航海、海運、鉱山、土木業に拡張した。
1884年(明治17年)に着工となった日本鉄道品川線(山手線)は日本最初の鉄道建設工事の競争入札とされ新宿-品川間は大倉喜八郎と平野富二が請負うことになった。この工事で平野はフランスドコービル社製の簡易軌条とトロッコを使用した。当時の土木作業の道具はモッコやバイスケが普通であり、最新鋭の機材投入は作業成績を向上させたという〔守田久盛・高島通『鉄道路線変せん史探訪』集文社、52頁〕。なおこのドコービルの日本独占販売権をもっていた平野は工事期間中に他の請負業者達たちに昼飯をもてなしシャンパンやビールをすすめたが売り込みは上々の出来であったという〔『石川島重工業株式会社108年史』1961年、249-250頁〕。1886年(明治19年)に有限責任東京平野土木組を設立し、各地の鉄道、道路や水道工事等に従事した。1888年(明治21年)に開業した碓氷馬車鉄道の工事を請負ったが軌条、車両はドコービル社製であった〔『石川島重工業株式会社108年史』1961年、250頁〕。
また建造船の販路を広めるべくみずから海運業をはじめることになり、1879年(明治12年)より東京-浦賀-立山間の航路により貨客の運行をはじめた。1881年(明治14年)に東京湾内汽船安全会社を設立、1886年(明治19年)平野個人が営業していた東京-横須賀航路を有限責任平野汽船組合とした。さらに海運業者も増えて競合するようになったので1889年(明治22年)東京湾内を航行する船会社が合併し有限責任東京湾汽船会社を設立した。これは1893年(明治26年)に株式会社化され東京湾汽船株式会社〔『日本全国諸会社役員録. 明治27年』 (国立国会図書館近代デジタルライブラリー)〕(現在の東海汽船)となった〔『石川島重工業株式会社108年史』1961年、247-248頁〕。
1887年(明治20年)に民間造船所として嚆矢の鉄製軍艦である鳥海を建造し〔「鳥海号進水式 石川島平野造船所で我国最初の製造砲艦」郵便報知 明治20年8月23日『新聞集成明治編年史第六巻』 (国立国会図書館近代デジタルライブラリー)〕、東都における最初の鉄橋である吾妻橋を架設〔「吾妻橋の鉄材 石川島造船所で製造」郵便報知 明治20年7月20日『新聞集成明治編年史第六巻』 (国立国会図書館近代デジタルライブラリー)〕したのも富二である。
富二は、終始一貫して官業及び渋沢栄一らの政商と対峙し、自由民権の地盤にたっていた。この意味において福沢諭吉とは相許したのである。長崎の寺(正木氏)に仮寓して留学した諭吉は長崎時代に富二と相識の間柄だったのであろう。
かくて、民間鉄工業の発達に寄与し、国産鉄管の使用を強調しつつ、その演説中に倒れた。時に1892年(明治25年)、まだ47の働き盛りであった。贈従五位

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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