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平岡梓 : ミニ英和和英辞書
平岡梓[ひらおか あずさ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たいら, ひら]
 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm
: [こう, おか]
 【名詞】 1. hill 2. height 3. knoll 4. rising ground
: [あずさ]
 (n) catalpa tree

平岡梓 : ウィキペディア日本語版
平岡梓[ひらおか あずさ]

平岡 梓(ひらおか あずさ、1894年明治27年)10月12日 - 1976年昭和51年)12月16日)は、日本農商務官僚内務官僚平岡定太郎の長男。作家・三島由紀夫の父〔「II 三島由紀夫の祖先を彩る武家・華族・学者の血脈」()〕〔「三島由紀夫伝」(『現代日本文学館』文藝春秋、1966年8月)。〕〔有元伸子「平岡家」()〕。少年時代の三島の執筆活動に大反対し、あえて悪役を買って出たことで、三島の反骨精神を目覚めさせて作家としての成長を間接的に助けた〔「わが友・平岡梓」()〕〔越次倶子「平岡梓」()〕。息子・三島の死後は、その毒舌的なシニカルさや、ブラック・ユーモアの入り交ざった回想録『伜・三島由紀夫』を著し、貴重な三島資料を残したことで知られる〔〔。
== 略歴 ==
1894年(明治27年)10月12日、東京府赤坂山王下の日枝神社参道入口付近の家で、父・平岡定太郎内務官僚)と母・永井なつ(東京府士族大審院判事・永井岩之丞の長女)との間の長男として誕生〔「I」(オール讀物 1987年1月号)。〕。本籍地兵庫県印南郡志方村上富木119番地(現在の加古川市志方町上富木)〔。梓の名は、定太郎が敬愛していた早稲田専門学校(現・早稲田大学)時代の恩師・小野梓に由来する〔。父・定太郎は梓が生れるとすぐに徳島県に転勤。その後一旦、本省に戻るが地方勤務が多く、父親不在の生活が高校入学まで続いた〔「第二章 幽閉された少年」()〕。梓には兄弟姉妹はなく、一人っ子として育った〔。
1912年(明治45年)3月、開成中学を卒業後、2浪。この時期に神経衰弱ぎみになり、哲学書や文芸書などに親しんだ〔「II」(オール讀物 1987年5月号)。〕。1914年(大正3年)9月に第一高等学校に入学。この頃、父・定太郎は樺太庁長官を失脚した〔。一高を卒業した梓は、東京帝国大学法学部法律学科(独法)に入学した。一高からの同級生には、岸信介我妻栄三輪寿壮らがいた〔〔。
東京帝大法学部時代のある冬の日、梓は正門前で同級生の三輪寿壮が、見知らぬ小柄な一高生の後輩と歩いているところに出くわした。梓は三輪に、肉でも食べようと湯島の牛肉屋「江知勝」に誘うが、今日は連れがあるから駄目だと三輪は断り、少し離れたところに立っている「弊衣破帽で色褪せたぼろぼろのマント」を羽織った「目玉ばっかりバカでかい貧弱な一高生」を指さした〔「川端さんのこと」()〕。
そしてその数日後、家にあそびに来た三輪から、その一高生が「川端康成」という作家志望の後輩だと聞き、正式に紹介すると言われたが、梓は辞退した〔。
1919年(大正8年)、高等文官試験を一番で合格し、大蔵省を受けたが面接官の印象がよくなく農商務省(現・農林水産省)に内定した〔「祖先」()〕。1920年(大正9年)7月、東京帝国大学を卒業し、農商務省に入省。事務官となった。岸信介も同期入省だった(岸は一高へ現役入学のため年齢は2歳下となる)〔。
1924年(大正13年)4月19日、東京府豊多摩郡大久保町大字西久保408番地(現・東京都新宿区大久保)に住む橋倭文重漢学者橋健三の次女)と結婚〔「序章――生家」()〕。両親と同居している東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷4丁目22番)の住居に嫁を迎え入れた。2階に梓と倭文重、1階が両親の住いとなり、女中6人、書生1人、新潟出身の下男1人がいた〔。この借家は東北出身の軍医が建てた和洋折衷といった趣の屋敷で、同番地内で一番大きい家だった〔。
翌年の1925年(大正14年)1月14日に長男・公威(のちの三島由紀夫)が誕生した〔〔「第一章 幼年期」()〕。公威が生まれて49日目に、「二階で赤ん坊を育てるのは危険だ」という口実の下、母・夏子は公威を梓たちから奪い取り、自室で育て始めた〔「第二章」()〕〔『仮面の告白』(河出書房、1949年7月)。〕。妻・倭文重が授乳する際も、夏子が時間を計ったという〔〔。
同年の1925年(大正14年)、農商務省が、機構改革により農林省(現・農林水産省)と商工省(現・経済産業省)に分割され、梓は農林省蚕糸局へ行った〔。同局に1927年(昭和2年)、楠見義男が配属されてきた〔。
1928年(昭和3年)2月23日に長女・美津子1930年(昭和5年)1月19日に次男・千之が誕生した〔。1933年(昭和8年)3月頃に、慶応病院が近くにある四谷区西信濃町16番地(現・新宿区信濃町8番)の借家に転居〔「年譜 昭和8年3月18日」()〕〔。8月に定太郎と夏子が、そこから2、3軒離れた家に住むことになり、夏子が溺愛する長男・公威だけがそこに加わることになった〔「III」(オール讀物 1987年6月号)。〕〔〔。この年の7月、梓は農林省米穀経理課長となった〔。
1937年(昭和12年)3月、梓は官僚として欧州を外遊した。この旅行の手土産には、 グイド・レーニの「聖セバスチャン」が載っている美術画集もあった〔。同年4月、梓の一家は渋谷区大山町15番地(現・渋谷区松濤2丁目4番8号)にある洋館の借家に転居することになった〔〔。これを機に、定太郎が夏子を説得し、中等科1年生の公威は夏子から引き離され、梓たちと同居するようになった〔〔〔。
同年10月9日、農林省営林局事務官に就任し、大阪営林局長となった〔。これ以降、1941年(昭和16年)1月21日に農林省水産局長に就任するまでの約3年間、大阪に単身赴任した〔「年譜 昭和16年1月21日」()〕。単身赴任中の1939年(昭和14年)1月18日に母・夏子が潰瘍出血のため死去〔〔。
1942年(昭和17年)3月、約1年務めた水産局長を最後に、農林省を退官。民間の国策会社に天下り、日本瓦斯木炭株式会社社長に就任した〔〔「第二章 戦時下の思春期」()〕。同年8月26日に父・定太郎が死去〔。
1945年(昭和20年)10月23日、17歳の長女・美津子を腸チフスで亡くし、悲しみに暮れた〔「第三章」()〕〔。同年の終戦で日本瓦斯用木炭株式会社は機能停止し、1946年(昭和21年)10月に日本薪炭株式会社となるが、1948年(昭和23年)1月に政府命令で閉鎖された〔「第三章 意志的情熱」()〕。引退後は、長男の公威(作家・三島由紀夫として認められた)と生計を共にしながら暮らした〔〔「第二章 戦中・戦後の苦闘」()〕。
1950年(昭和25年)8月には、目黒区緑ヶ丘2323番地(現・緑が丘1丁目17-24)の借家へ転居〔「第三章 『仮面の告白』の時代」()〕。その後三島の結婚に伴い、1959年(昭和34年)5月からは、大田区馬込東1丁目1333番地(現・南馬込4丁目32-8)の新築の邸宅に移住した〔「第五章 『鏡子の家』の時代」()〕。
1965年(昭和40年)5月、期外として東京弁護士会に登録(第9682号)したが、弁護士業務はおこなわなかった〔「第四章 憂国の黙契」()〕。1970年(昭和45年)11月25日、長男の三島が自衛隊市ヶ谷駐屯地割腹自決した(詳細は三島事件を参照)。
1971年(昭和46年)、3月23日から東京地方裁判所で始まった「楯の会事件」の公判(全18回)には、嫁の平岡瑤子遺言執行人の斎藤直一弁護士と共に傍聴した〔「春の雪 ■第一回公判」()〕〔「第八章 没後史」()〕。梓は同年の12月から翌1972年(昭和47年)4月まで、雑誌『諸君!』に三島の思い出を綴った手記「伜・三島由紀夫」を連載し、5月に文藝春秋から刊行された〔。裁判のことなどを回想した続編も、その2年後の1974年(昭和49年)6月に刊行した〔。
1976年(昭和51年)、肝硬変を患っていた梓は、に溜まった漿による呼吸困難のため、12月16日の午後14時50分頃、虎ノ門病院で82歳にて死亡〔「昭和51年12月16日-18日」()〕〔「年譜 昭和51年」()〕〔「エピローグ」()〕。12月18日、次男・千之が喪主となり、葬儀・告別式が港区愛宕1丁目33の青松寺で営まれ、正四位勲三等が贈られた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「平岡梓」の詳細全文を読む




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