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島田光二 : ミニ英和和英辞書
島田光二[しまだ こうじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しま]
 【名詞】 1. island 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [ひかり]
 【名詞】 1. light 
: [に]
  1. (num) two 

島田光二 : ウィキペディア日本語版
島田光二[しまだ こうじ]

島田 光二(しまだ こうじ、1936年4月12日 - )は、日本プロ野球選手内野手)。右投右打。三重県四日市市出身。近鉄パールス→近鉄バファロー→近鉄バファローズで活躍し、引退後は同球団でコーチ・二軍監督・一軍代理監督を務めた。
== 来歴・人物 ==
四日市高校では、1954年に夏の甲子園県予選を勝ち抜くが、三岐大会で岐阜高に敗退、甲子園出場を逸する。高校同期にエースの巽一がいる。また1年下の高橋正勝(巨人に入団)は、翌年夏の甲子園で主戦投手として初優勝している。
1955年に近鉄に入団し、一年目から一軍出場。内野の準レギュラーが長かったが、1962年一塁手の定位置を獲得し、規定打席(打率.278、18位)に到達。その後も内野全般をこなすユーティリティプレイヤーとして活躍し、通算1029試合に出場した。小玉明利らとともに近鉄生え抜きの中心選手であり、早くから将来の指導者と期待されていた。現役最後の年となった1967年にはコーチ兼任でプレーした。
引退後はコーチとして在籍していたが、1973年のシーズン途中から岩本尭の休養による代理監督を務めた。代理監督以前の成績は2割代と低迷していたが18試合で指揮をし7勝10敗1分と健闘した〔  草創期から支え続けた147人の監督列伝 日本プロ野球昭和の名将、ベースボール・マガジン社、2012年、P94〕。1974年からは新監督西本幸雄の元、再びコーチに戻ったがその年限りでユニフォームを脱いだ。その後フロント等を経て朝日放送(ABC)の野球解説者を務めた。
1984年からは近鉄コーチへ復帰し1986年1987年には二軍監督を務めた。1989年からは球団の編成担当として活動していたが1993年に退団し、翌1994年から再びABCの解説に復帰し1995年まで務めた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「島田光二」の詳細全文を読む




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