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岡田有希子 : ミニ英和和英辞書
岡田有希子[おかだ ゆきこ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こう, おか]
 【名詞】 1. hill 2. height 3. knoll 4. rising ground
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [う, ゆう]
  1. (n,vs) possession 
: [まれ]
  1. (adj-na,n) rare 2. seldom
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

岡田有希子 : ウィキペディア日本語版
岡田有希子[おかだ ゆきこ]

岡田 有希子(おかだ ゆきこ、1967年8月22日 - 1986年4月8日)は、日本アイドル歌手女優である。本名、佐藤 佳代(さとう かよ)。愛称は「ユッコ」。身長155cm、体重44kg、B86cm(公称84cm)・W58cm・H84cm、血液型O型、視力両目0.1以下〔『近代映画 岡田有希子Special』近代映画社、34頁〕。
愛知県名古屋市熱田区出身。名古屋市立高蔵小学校、名古屋市立沢上中学校名古屋市立向陽高等学校から堀越高等学校へ編入、卒業。サンミュージックに所属していた。1980年代中期に活動したアイドル歌手のひとりであり、「ポスト松田聖子」としても期待されていたが〔上之郷利昭『岡田有希子はなぜ死んだか』新森書房、1986年〕、人気絶頂だった1986年昭和61年)に飛び降り自殺した。報道に端を発した若者の相次ぐ自殺は、大きな社会問題となった〔資料1、2-3頁〕。当時のこの現象を「ユッコ・シンドローム」と呼ぶこともある〔「不可解な自殺をした者たち――岡田有希子」()〕。
== 経歴 ==
1967年(昭和42年)8月22日愛知県一宮市にて、2人姉妹の次女として生まれる。母親が辺縁性胎盤による帝王切開も検討されるほどの難産で、産まれたときは身長47センチ、体重2700グラムの未熟児だった〔『岡田有希子 愛をください』78頁〕。命の危険があり、脳に重い後遺症が残る可能性もあったが、幸いにも胎児に異常はなかった〔。2歳の時に名古屋市熱田区に引越し、上京するまでを過ごす。幼少期は、言語障碍ではないものの「さ行」が全く言えず、先生を「い」、三輪車を「んりんゃ」としか話せなかった〔『BOMB!』1984年6月号、14-15頁〕〔『DUNK』1986年1月号、204頁〕。親が叱ろうとすると、その前に押入れに逃げ込んでしまい、引っぱり出すのに苦労したという〔。また、顔の割りに耳が大きく目立つことから「ダンボ耳」とからかわれたため、耳を隠す髪形だった〔『瞳はヒミツ色』102-105頁〕。女の子らしい遊びをするよりも、道具を使って工作や組み立てをすることが大好きで、「プレゼントに何が欲しい?」と聞かれ「大工道具セット」と答えている〔『岡田有希子 愛をください』74頁〕。幼稚園に入ると、姉が通っていたYMCAの体育教室に通い始め、器械体操キャンプスキースケートに専念するが〔『DUNK』1984年12月号、84-85頁〕、自分の運動神経のなさを自覚したという〔『BOMB!』1984年6月号、16-17頁〕。
小学生になると描く(書く)職業に憧れ、小学3年生の作文では「画家漫画家小説家」を挙げている〔。特に画家に強い憧れを持ち、YMCAをやめて小学4年生から水彩画を習い始める。このとき母親に「一年経って、先生から才能があると言われたら芸大に進みたい」と話している〔『岡田有希子 愛をください』79頁〕。小学5年生のとき、朝日新聞社主催の写生大会で入選。小学6年生のとき、熱田神宮の写生大会で宮司賞(一等賞)を獲る。この頃から油絵日本画も習い、本格的にデッサンから学び始める〔。中学2年生の夏休みの課題では、大ファンである河合奈保子肖像画を油絵で描き、中学校内の展覧会で金賞を獲っている。その作品を河合に送ろうと、真剣に考えていたという〔『アイドルコミックス・実録まんが岡田有希子』学研、1984年〕〔1985年10月21日放送の音楽番組ザ・トップテン』(日本テレビ系列)で河合奈保子と共演したとき、初めて本人の前で作品を披露した。〕。
その一方で、芸能タレントにも憧れを持つようになる〔トーク番組三枝の爆笑美女対談』(フジテレビ系)1984年12月9日放送では「小学4年生」、新書『アイドルコミックス・実録まんが岡田有希子』(1984年、学研)では「小学5年生」、グラビア雑誌BOMB!』1984年6月号では「小学6年生」と語っている。〕。小学2年生から合唱部に入り、小学6年生の時「部員の一人」として地元のテレビやラジオ番組に出演する〔。また、同じく小学6年生の時、学芸会音楽劇浦島太郎」で乙姫役を演じる〔『岡田有希子 愛をください』98頁〕。この演劇は、校長が走って見に来たほどだった〔。これらがきっかけとなり、中学生になると『ホリプロタレントスカウトキャラバン』やテレビドラマなど、様々なオーディションに応募するようになる〔。連続テレビドラマ『中学生日記』(NHK名古屋局)にエキストラとして出演したり〔『岡田有希子 愛をください』107頁〕、中学2年生の1981年8月、姉が購読していた雑誌『高一時代』(旺文社)に載っていたオーディション『ニコン フレッシュギャルコンテスト』に応募し、準グランプリに選ばれグアム旅行を獲得した〔。しかし、いずれも本格的な芸能界入りにはつながらなかった。
中学3年生の1982年6月、一年前に応募していたオーディション番組『スター誕生!』(日本テレビ)の予選会通知が、中京テレビから届く。彼女は「中学2年生で出場して、中学3年生でデビューする」という計画を立てていたが、1年遅れの通知だった〔。「出場するなら内申書を書かない」と担任教諭に反対される中、学校を無断欠席して名古屋地区予選に出場。北原佐和子の『マイ・ボーイフレンド』を歌い、決戦大会への切符を掴む〔『BOMB!』1984年6月号、18-19頁〕。しかし、担任教諭だけでなく祖父や家族にも猛反対された〔『岡田有希子 愛をください』81頁〕ため、12月の決戦大会出場を断念〔。ハンストを起こし、食事をせず自分の部屋に閉じこもる〔。その4日目、見るに見かねた母親が、芸能界入りの条件として「学内テストで学年1位になること、中部統一模擬試験で学内5位以内に入ること、第一志望の向陽高校に合格すること」という、クリア不可能と思われる3つを提示する。彼女は猛勉強の末、それらの条件を全てクリアする〔『BOMB!』1984年6月号、20-21頁〕。さらに、地区予選に立ち会っていた芸能事務所サンミュージック専務・福田時雄と番組プロデューサー金谷勲夫が家族へ説得したこともあり〔CD/DVD-BOX『贈りものIII』ブックレット〕、1983年(昭和58年)3月の決戦大会への出場を許された〔『瞳はヒミツ色』64-65頁〕。3月30日、『スター誕生!』の第46回決戦大会で中森明菜の『スローモーション』を歌う。結果は、後日発表されることとなった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「岡田有希子」の詳細全文を読む




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