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岑彭 : ウィキペディア日本語版
岑彭[しん ほう]

岑 彭(しん ほう、? - 35年)は後漢の武将。君然(くんぜん)、南陽郡棘陽(河南省新野県)の人(『後漢書』列伝7・本伝)。後漢・光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第6位に序せられる(『後漢書』列伝12)。
==略歴==

王莽の為政下では棘陽県の長で、兵が棘陽県を降すと、家族を率いての前隊大夫(制における南陽郡の太守甄阜を頼った。甄阜は岑彭が棘陽を固守しなかったことに怒り、母と妻を捕らえさせて、岑彭に勇戦させた。甄阜が戦死すると、岑彭は宛に帰って城守した。更始1年(23年)5月末、城中量尽きて人が相食むようになり、遂には降った。漢の諸将は誅すべしと言うが、大司徒劉縯は「郡の重役であれば、堅守するは節と言うもの。今、大事を成さんとすれば、まさに義士は顕かにすべし。これを封じて、続くものを励ますに如かず」と助け、更始帝は岑彭を帰徳侯と為し、劉縯に帰属させた。
劉縯が更始帝に殺害された後には、岑彭は大司馬朱鮪の校尉となり功を上げた。その後、潁川太守として任地に赴かんとするが、劉秀の親族劉茂が厭新将軍として潁川、汝南を降す故、同郷人の河内太守韓歆に従った。劉秀が河内県に到るに当って、岑彭は止めんとするも韓歆は城守せんとし、劉秀が既に懐に到れば、韓歆は慌ててこれを迎えて降った。劉秀、韓歆の謀を知って怒り、斬ろうとした。岑彭は召見されるや自ら「我は大司徒劉縯に命を助けてもらいましたが、その恩に報いることなく、大司徒劉公は禍難を被り、我は心残りに思っていました。またここで蕭王と遭遇すれば、願わくは一身をもって尽くさん」と言った。劉秀は岑彭を受け入れ、岑彭が大豪族の出自で使えますと進言したため、韓歆を許した。岑彭が呉漢と共に更始帝の尚書令謝躬の軍を奪取した後、劉秀は岑彭を刺姦大将軍と為して兵を監督させた。岑彭は劉秀の河北平定に従軍した。
建武1年(25年)、劉秀が皇帝に即位すると、廷尉と為り、そのまま帰徳侯を受けた。この時期、岑彭ら十一将が守将朱鮪の洛陽を包囲し数月して降せずにいたが、嘗て岑彭は朱鮪の校尉であったことより、光武帝は岑彭に朱鮪を説得させた。朱鮪は劉縯殺害と劉秀の河北への転出妨害のため、劉秀に恨まれていることを畏れていたが、劉秀は大事の前の小事と岑彭に朱鮪の爵土を保証し、これによって朱鮪・洛陽は降った。この後、岑彭は荊州の賊軍平定を命じられた。
建武2年(26年)、南陽郡の平定に働き、その功により征南大将軍に任命された。
建武3年(27年)、光武帝(劉秀)の親征に合流し、諸将らと鄧奉董訢を破った。光武帝は洛陽に帰り、岑彭は三将を率いて、黎丘の群雄秦豊を討つ。
建武4年(28年)、光武帝は弱体化した秦豊に対して、朱祜を岑彭に交替させた。
建武5年(29年)、傅俊らと夷陵の群雄田戎を津郷に撃って破り、田戎は、蜀の公孫述を頼って逃げた。
建武8年(32年)、光武帝の隗囂親征に従い、隗囂を呉漢と共に囲むも公孫述が隗囂を救援し、長安まで撤退。
建武9年(33年)、公孫述は南郡を襲い、岑彭は応戦するも苦しみ、水軍を拡充する。
建武11年(35年)、岑彭は呉漢らと共に、公孫述を討つべく蜀に進行。光武帝は呉漢は水軍に慣れず、岑彭は水軍に慣れていると、軍を岑彭に一任した。岑彭は進軍する度に益州並びに降した郡の太守の兼務を命じられた。遂には江州から武陽まで到るも公孫述の刺客のため倒れた〔岑彭の陣営を敷いた場所は亡彭聚と云い、「彭が亡くなる」と言う意味を嫌って岑彭は移ろうとしたが、偶々日が暮れて野営し、逃亡奴婢を騙った刺客に斬られた〕。謚は壮侯。軍を引き継いだ呉漢は公孫述・蜀を降した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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