翻訳と辞書
Words near each other
・ 山本宏美
・ 山本宜久
・ 山本実
・ 山本実彦
・ 山本実枝
・ 山本宣久
・ 山本宣治
・ 山本家
・ 山本容子
・ 山本容朗
山本富士子
・ 山本富士雄
・ 山本富雄
・ 山本寛
・ 山本寛 (アニメ演出家)
・ 山本寛 (野球)
・ 山本寛久
・ 山本寛太郎
・ 山本寛子
・ 山本寛幸


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

山本富士子 : ミニ英和和英辞書
山本富士子[やまもと ふじこ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 
: [とみ]
 【名詞】 1. wealth 2. fortune 
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

山本富士子 : ウィキペディア日本語版
山本富士子[やまもと ふじこ]

山本 富士子(やまもと ふじこ、1931年12月11日 - )は日本女優。本名は同じ。愛称はお富士さん。身長159cm。
== 来歴・人物 ==

大阪市西区立売堀生まれ。母は船場の綿花問屋山重の主人の長女。和泉市で育ち、後に泉大津市助松に引越し浜寺小学校に入学。少女時代、花柳禄寿門下の花柳禄之助について日本舞踊を習う。大阪府立大津高女(現・大阪府立泉大津高等学校)→京都府立第一高女(現・京都府立鴨沂高等学校)卒業。
1950年読売新聞社中部日本新聞社西日本新聞社が主催する第1回ミス日本(700人近い応募者があった)において、満場一致でミス日本の栄冠に輝いた。この時の審査や授賞式の模様を伝えた白黒ニュースフィルムが現存する〔昭和館5階にある映像・音響室のブースにてニュース映画を選択後、「ミス日本」と検索すると京都代表として出場した姿を視聴可能。〕。1951年にミス日本として公式訪米し、ニューヨークヤンキー・スタジアムマリリン・モンロージョー・ディマジオに会った。ミス日本に選ばれた後、映画界からスカウトされるが、当初女優になる意思はなかった。しかしスカウトが途切れず、悩んだ末、姉の「これからの女性は仕事を持つことよ」という言葉に女優になる決心をする。
ミス日本になってから3年後の1953年、映画会社の争奪戦の末、大映に入社。契約内容は「1本あたりのギャラはスライド制で1年目が10万円、2年目が20万円、3年目が30万円と意外に安いかわりに、3年たったら自由契約」であったが、3年後の自由契約の約束は守られなかった。同年、映画「花の講道館」で長谷川一夫の相手役としてデビュー。戦後ミスコン出身女優第1号と言われている。1954年に『金色夜叉』、1955年には『婦系図 湯島の白梅』のヒロイン、1956年の映画『夜の河』が大ヒットし、大映の看板女優として活躍した。
1963年1月、大映との契約更改を月末に控え、前年と同じ条件の「年に大映2本、他社2本出演」の契約を主張したが受け入れられず、1月末の契約切れを待ってフリーを主張。大映の社長・永田雅一は烈火の如く怒り、彼女を解雇し五社協定にかけると脅した。山本はフリー宣言をし、同年2月28日、帝国ホテルでの記者会見で「そんなことで映画に出られなくなっても仕方ありません。自分の立場は自分で守ります。その方が生きがいがあるし、人間的であると思います。」と語り、詫びを入れろとの周囲の声に耳を貸さなかった。永田は一方的に解雇し、五社協定を使って他社や独立プロの映画や舞台からも締め出すよう工作する。この事は当時の国会でも取り上げられ、世間でも「人権蹂躙」と非難の声が上がった。彼女はテレビドラマに活路を求め、『山本富士子アワー』などに主演した後、演劇に新境地を開き、2013年現在まで演劇一筋で主演を続けている。
なお、五社協定から49年が経過した2012年の今も映画界には復帰していない。ただ、テレビ番組『映像美の巨匠 市川崑』(1999年、NHK)の中で、1983年に市川崑から映画『細雪』への出演依頼があったが断っている。結局、岸惠子が演じることとなったが、公開になった映画を観て、出演しなかったことを後悔したと語っている。しかしこの映画は原作とは異なり、依頼された鶴子役は物語を牽引するように台詞や表情に難易度の高い演技が要求されたので、鶴子役が異なっていたら全く違う映画になっていたのは明らかである。
1962年、作曲家の山本丈晴(旧姓:古屋、古賀)と結婚(2011年9月7日に死別)。1968年、長男を出産。現在は孫もいる。
2002年12月、日本経済新聞で「私の履歴書」を連載。
2011年11月21日、夫・丈晴のお別れの会が東京都千代田区紀尾井町にあるホテルニューオータニで開かれ、喪主を務めた。会には芸能界や政財界などから約1000人が出席した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「山本富士子」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.