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尹良親王 : ミニ英和和英辞書
尹良親王[ゆきよししんのう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いん]
 【名詞】 1. official rank 
: [りょう]
 【名詞】 1. good 
親王 : [しんのう]
 【名詞】 1. prince of royal blood 2. Imperial prince
: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 

尹良親王 : ウィキペディア日本語版
尹良親王[ゆきよししんのう]
尹良親王(ゆきよししんのう/これなが―/ただなが―、正平19年/貞治3年(1364年)〔『南朝編年記略』・『南朝公卿補任』記載の年齢から逆算。ただし、『氷室系譜』などは何によってか、正平9年7月5日1354年7月25日)の生誕とする。〕? - 応永31年8月15日1424年9月7日)?)は、『浪合記』『信濃宮伝』などの軍記に見える南朝皇族。それらの記すところによれば、後醍醐天皇の孫にして、中務卿宗良親王の王子であり、母は井伊道政の女〔異説には、知久敦貞の女(『南山巡狩録』)や香坂高宗の妹・紀伊后(大鹿村の伝承)とする。また、この知久氏の女を親王の乳母とする系図もある。〕とされる。父親王の討幕の遺志を継いで東国各地を転戦したと伝えられるが、その内容の信憑性が極めて乏しいため、歴史学の立場からは実在性を疑問視する意見が多い。源尹良とも。
== 経歴 ==
浪合記』『信濃宮伝』の間では年紀などに少なからず異同が見られるが、『南朝編年記略』などを援用しつつまとめると、およそ以下のとおりになる。
遠江井伊谷の館で生まれる。初め上野に移ったが、天授5年/康暦元年(1379年吉野に参候し、親王宣下を蒙って二品に叙される。後に兵部卿を経て、元中3年/至徳3年(1386年8月8日源姓を賜って臣籍に下り、同時に正二位権中納言に叙任され、左近衛大将征夷大将軍を兼ねた。元中9年/明徳3年(1392年南北朝合一後もなお吉野に隠れ留まる。応永4年(1397年)2月伊勢を発して駿河宇津野(静岡県富士宮市)へ移り、田貫左京亮の家に入った。同5年(1398年)春に宇津野を出て上野へ向かうが、鎌倉の軍勢から攻められたために柏坂(迦葉坂か)でこれを防戦。武田信長の館に入って数日逗留した後、8月上野寺尾城群馬県高崎市)に赴いた〔『信濃宮伝』には、柏坂の合戦の件は見えず、寺尾城入御を応永7年(1400年)1月のことと記す。〕。同10年(1403年)頼みとしていた新田義隆(義則か)が底倉で害されると、世良田有親らを伴って下野落合城(栃木県上三川町)に没落。次いで桃井満昌堀田正重など旧功の士100余騎を率い、高崎・安中・碓氷の敵を討って信濃入りし、島崎城(長野県岡谷市)の千野頼憲を頼って再興の機会を窺った〔『浪合記』には、寺尾城に長らく留まったとし、島崎城入御を応永31年(1424年)4月のことと記す。〕。同31年(1424年)8月三河足助へ向かおうとし、諏訪を発して伊那路に差し掛かった折、待ち受けていた賊徒飯田太郎・駒場小次郎ら200余騎が阻んだため、浪合にてこれと奮戦した(浪合合戦)。味方は80余騎であったが、結局世良田義秋羽河景庸・熊谷直近ら以下25人が討たれ、最期を悟った尹良は子の良王君を従士に託した後、大河原の民家に入って自害した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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