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寺島宗則 : ミニ英和和英辞書
寺島宗則[てらしま むねのり]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [てら]
 【名詞】 1. temple 
: [しま]
 【名詞】 1. island 
: [そう, しゅう]
 【名詞】 1. sect 

寺島宗則 : ウィキペディア日本語版
寺島宗則[てらしま むねのり]

寺島 宗則(てらしま むねのり、1832年6月21日天保3年5月23日)- 1893年明治26年)6月6日)は、日本の政治家。爵位は伯爵。元は松木弘安(まつき こうあん)。通称は寺島改姓後に陶蔵と名乗った。日本の電気通信の父と呼ばれる。第4代外務卿として活躍した。
== 来歴・人物 ==
天保3年(1832年)、薩摩国出水郡出水郷脇本村字槝之浦(現・阿久根市脇本字槝之浦)の郷士長野成宗の次男として生まれる(幼名徳太郎、後に藤太郎)。5歳のとき、跡継ぎがいなかった伯父で蘭方医の松木宗保の養嗣子となり、長崎で蘭学を学ぶ〔ザビエルそして洋学、留学生』第二章近代西洋文明と鹿児島(三)鹿児島の英学 ザビエル渡来450周年記念シンポジウム委員会図書出版 南方新社, 2000 〕。
弘化2年(1845年)、江戸に赴き伊東玄朴川本幸民より蘭学を学び、安政2年(1855年)より中津藩江戸藩邸蘭学塾慶應義塾の前身)に出講する〔中津藩士藩儒者岡見彦三 〕〔平山洋「諭吉の流儀『福翁自伝』を読む」ISBN 4569709419 71P参照〕。
安政3年(1856年)、蕃書調所教授手伝となった後、帰郷し薩摩藩主・島津斉彬の侍医となったが、再度江戸へ出て蕃書調所に復帰した。蕃書調所で蘭学を教える傍ら、安政4年(1857年)から英語を独学しはじめ、安政5年(1858年)に横浜で貿易実務に関わったことをきっかけに、翌安政6年(1859年)から本格的に英語を学ぶ〔。文久元年(1861年)には、英語力が買われて幕府の遣欧使節団の西洋事情探索要員として、福澤諭吉箕作秋坪とともに抜擢された〔。
文久2年(1862年)、幕府の第1次遣欧使節(文久遣欧使節)に通訳兼医師として加わる。この時、欧州でオランダ語がまったく重要視されていないことを知り、英学派に転ずる〔。翌年に帰国して鹿児島に戻る。文久3年(1863年)の薩英戦争においては五代友厚とともにイギリス軍の捕虜となる〔。慶応元年(1865年)、薩摩藩遣英使節団に参加し、再び欧州を訪れる。
明治維新後、遣欧使節での経験を生かして外交官となる。明治元年(1868年)にはスペインとの日西修好通商航海条約の締結に関わり、同4年(1871年)にはハワイ王国との日布通商条約締結の際の日本側全権を任されている。明治5年(1872年)、初代の在イギリス日本公使となる。
明治6年(1873年)、参議外務卿となる。政府の財政難から関税自主権回復を目指し、諸外国との条約改正に臨み、アメリカとの交渉は良好に進むがイギリスの反対やドイツ船ヘスペリア号事件などもあって条約改正への希望を挫折せざるを得なくなり、明治12年(1879年)に外務卿を辞職。その後、文部卿元老院議長、在アメリカ日本公使、枢密顧問官、枢密院副議長などを歴任した。
明治17年(1884年)には伯爵に叙され、翌年には東京学士会院会員となった。
明治26年(1893年)、62歳で死去。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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