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奥田碩 : ミニ英和和英辞書
奥田碩[おくだ ひろし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おく]
 【名詞】 1. interior 2. inner part 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 

奥田碩 : ウィキペディア日本語版
奥田碩[おくだ ひろし]

奥田 碩(おくだ ひろし、1932年12月29日 - )は、日本実業家勲等旭日大綬章トヨタ自動車株式会社相談役、一般社団法人日本経済団体連合会名誉会長、公益財団法人トヨタ財団会長。
トヨタ自動車株式会社代表取締役社長(第3代、工販分離前から数えると第8代〔トヨタ自動車75年史 歴代の会長・副会長・社長(含 受章歴) トヨタ公式サイト〕)、同社代表取締役会長(第3代、工販分離前から数えると第7代〔)、同社取締役相談役、社団法人日本経営者団体連盟会長(第9代)、社団法人日本経済団体連合会(当時)会長(初代)、内閣特別顧問日本郵政株式会社取締役兼指名委員長兼報酬委員長、株式会社国際協力銀行代表取締役総裁などを歴任した。
== 来歴・人物 ==

=== 生い立ち ===
三重県津市出身。三重県立松阪北高等学校(現・三重県立松阪工業高等学校)を経て、1955年一橋大学商学部を卒業。奥田務(元J.フロント リテイリング会長兼CEO)は実弟。
幼少時は、祖父や父が三重県最大の証券会社・奥田証券を営んでおり裕福だった。慶應義塾大学経済学部出身の父は温和だったが、祖父は気性が荒く、芦屋市に別邸を構えた相場師だったことから、ギャンブル好きの碩の性格について、両親は祖父の血を引き継いだと考えていたという。
第二次世界大戦日本本土空襲により、実家が全焼。祖母が住んでいた飯南郡射和村上蛸路(現松阪市上蛸路町)に疎開。全財産を失い、戦後も祖母の家の近くで、7人兄弟、9人家族で狭い借家に住むこととなった。家業の奥田証券も破綻し、債務超過のため相続放棄を余儀なくされ、高校の授業にも出席せず、修学旅行にも参加できず、1人大学受験勉強をして孤独に過ごした。後年、東京証券取引所役員を務め、当時大阪証券取引所の役員を務めていた弟の奥田務と、合併により誕生した日本取引所グループの役員会で会った際には、「祖父と父が見たら喜ぶやろね」と語り合ったという〔奥田務「私の履歴書2」,日本経済新聞2015年12月2日〕。
柔和な表情が多く、地位にこだわらない飄々とした印象を持たれることが多いものの、幼い頃から競争心の強い負けず嫌いな性格で、経済的な困窮生活を送った経験から、いつか見返してやりたいという気を持ち、会社での栄達を望んだという。また180cmの長身で12歳から柔道を始め、大学でも柔道部に所属。在学中に柔道四段を取得し(のちに六段)、1952年の東京都国公立大学ジュニア選手権リーグ戦では、1チーム5名の点取り試合方式で、チーム優勝した〔〕。大学柔道部で1年後輩だった高橋宏(元首都大学東京理事長)は、奥田の性格について、気さくな性格だったが、「眠狂四郎のような雰囲気」の物静かな人柄で、徒党を組むタイプではなかったと評する。趣味はギャンブルカラオケ読書で、山本周五郎などの歴史小説古典を好む〔「非創業家トップ、海外に環境に猛進 「眠れる巨象」を叩き起こせるか」 〕。カラオケ仲間には加藤紘一などがいる〔「「『小泉・竹中路線』の功罪は?」  ゲスト: 加藤紘一 氏 / 奥田碩 氏 」 TBS時事放談2006年6月18放送〕〔〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「奥田碩」の詳細全文を読む




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