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大礼服 : ミニ英和和英辞書
大礼服[たいれいふく]
【名詞】 1. court dress 2. full-dress uniform
===========================
大礼 : [たいれい, だいらい]
 (n) imperial or state ceremony
大礼服 : [たいれいふく]
 【名詞】 1. court dress 2. full-dress uniform
: [れい]
 【名詞】 1. expression of gratitude 
礼服 : [れいふく]
 【名詞】 1. ceremonial dress 
: [ふく]
  1. (n,n-suf) clothes 
大礼服 : ウィキペディア日本語版
大礼服[たいれいふく]

大礼服(たいれいふく)は、明治時代から太平洋戦争の終戦まで使用されていた、日本におけるエンパイア・スタイル宮廷服(Court dress)。明治初頭に導入され、その後大日本帝国憲法発布に至る立憲君主制確立の過程で整備された、いわゆる「大日本帝国の服制」〔刑部 第5章〕における最上級の正装である。華族文官用のものは制式が決められていた。

== 沿革 ==

明治維新当初、新政府を構成した人々の服装は江戸時代の身分によって、公家の衣冠狩衣、武家の直垂、西洋化された藩兵の西洋式軍服とまちまちであった。例えば、明治元年(1868年)の東幸では服装について、出立と入城の際は衣冠で道中は狩衣とすべきと主張する公家の中山忠能と、狩衣は入城の際のみとして道中は直衣・直垂を任意とすることを希望する同じ議定で武家の伊達宗城の間で意見が対立した。その結果、道中は狩衣と直垂の着用を任意とされ、入城の際は衣冠の着用も可とされた。しかも、衣冠・狩衣・直垂は各自で色や紋が異なるため行列の服装は全く統一されず、威厳とは程遠いものだった。更に、沿道警護の兵は西洋式軍服姿であったが、これも洋服の着こなしに慣れていないために統一性を欠いており、アーネスト・サトウからは、行列の威厳が損なわれたのは「だらしがない兵隊のせいである」と酷評された。この統一性のない服装の行列は明治2年(1869年)の東幸でも変わらなかった〔刑部 p 12-24〕。
そのため、維新政府には統一された新たな服制が必要となり、明治2年5月の官吏公選によって発足した新体制では、刑法官知事へ就任した嵯峨実愛岩倉具視の意を受けてこの問題を担当することになった。そして、11月2日の集議院に於いて、岩倉の提議により、嵯峨が蜷川式胤らの協力により考案した新政府の官員が着用する制服について審議されることとなった。しかし、このとき提案された冠服は、公家の服装を基にしたものであったため、武家出身者からの反発に遭った。このような混乱を収束するために、明治4年9月4日1871年10月17日)、「服制改革内勅」が出された。この内勅は従来の服装に拘る華族に対するもので、衣冠などの服装は軟弱であり、神武天皇神功皇后の頃の姿に戻るべきとしている。この「神武・神功の頃の姿」とは「筒袖・細袴」を意味しており、洋服もまた「筒袖・細袴」なので、洋服は日本人本来の姿と相通ずるものであることを示唆している。そして、“神武創業”の精神に立ち返って新しい服制を創造しようと呼びかけている〔刑部 p 24-45〕。
翌明治5年(1872年)、明治5年11月12日太政官布告第339号(大礼服及通常礼服ヲ定メ衣冠ヲ祭服ト為ス等ノ件)を以って文官と非役有位者の大礼服を含む服制が規定され、明治5年11月29日太政官布告第373号 (大礼服及通常礼服著用日ノ件) により着用規定が定められた。大礼服は当時ヨーロッパ宮廷での最上級正装として使用されていた宮廷制服(Court uniform)に倣って新たに定められた。第339号布告では、これらの大礼服に対して現代の正装であるホワイトタイの燕尾服が通常礼服とされた。通常礼服は小礼服とも呼ばれ、民間人等の大礼服が制定されていない者はこれを正装とした。そして、通常服はフロックコートであった。
明治6年(1873年)、文官と非役有位に続いて皇族大礼服が制定された(明治6年2月22日太政官布告第64号)。皇族大礼服はその後明治9年(1876年)と明治44年(1911年)に改正されている。
明治17年(1884年)、「華族令の奉勅」 (明治17年7月7日宮内省達)が公布されたのに伴い、明治17年10月25日宮内省乙第8号達を以って有爵者大礼服が制定された。続いて、同年10月29日太政官達第91号ではガウン型の宮内官大礼服(侍従職・式部職の勅任官奏任官)が定められた。その後、明治21年(1888年)から明治22年(1889年)にかけて他の職員の制服が整備され、大礼服も定められた。宮内官の制服はその後明治44年(1911年)と昭和3年(1928年)に大改正が行われている。
明治19年(1886年)6月23日宮内省内達により、婦人の礼式相当の西洋服装が規定された。女子の大礼服はマント・ド・クールとされ、「新年式ニ用ユ」とされた。中礼服のローブ・デコルテと小礼服のローブ・ミーデコルテは共に「夜會晩餐等ニ用ユ」とされ、通常礼服にローブ・モンタントは「裾長キ仕立ニテ宮中晝ノ御陪食等ニ用ユ」とされた〔刑部 p 68-70〕〔錦織 p 236〕。
また、翌年の明治20年(1887年)年1月には皇后より洋服を奨励する思召書が出され、「勉めて我が國産を用ひんの一言なり。もし、能く國産を用ひ得ば、傍ら製造の改良をも誘ひ、美術の進歩をも導き、兼ねて商工にも、益を與ふることおおかるべく」と国産の洋服の着用を呼びかけている。
同年12月4日には文官大礼服の図式が改正されたが、この際判任官のものは改正されず、その後は下級官吏も小礼服を使用した。大礼服は官員各自が自費で調製するものとされたが、下級官吏には負担が大きかった。菊池武夫が同じ洋服店で三つ揃いの背広と奏任官大礼服を誂えたところ、背広は28円だったのに対し、大礼服は220円かかっている〔刑部 p 178-179〕。
女子の大礼服は更に高額であり、ドイツに発注した昭憲皇太后の大礼服一式が13万円かかったほか〔坂本一登『伊藤博文と明治国家形成』(講談社学術文庫、2012)〕、上杉茂憲夫人が明治34年(1901年)末に日本橋白木屋洋服店でしつらえた大礼服一式は、1028円81銭の領収書が残っている。同家服飾費の2年半分であったという〔『図録 特別展 上杉伯爵家の明治』米沢市上杉博物館、2008年〕。ベルツは女子大礼服の採用に異議を唱えたのに対し、伊藤博文は欧米から見下げられない儀礼を志向して退けた〔。
明治41年(1908年)、熱帯地域又は炎暑酷烈なる地方に勤務する外交官のために明治41年3月2日勅令第15号(外交官及領事官大礼服代用服制)を以って大礼服の代用となる服装が制定された。その後、南洋群島に在勤する文官にも大礼服及び小礼服(燕尾服)の代用となる礼服が大正15年9月29日勅令第311号(南洋群島在勤文官礼服代用服制)により制定された。これらは何れも白色のチュニックであった。広田弘毅沢田廉三南洋庁官員の着用した姿が、ニュース映画で確認できる〔前者については日本ニュース第111号 および第166号 、後者については同第24号 参照。〕。
陸軍武官で大礼服に相当するものは正装と呼ばれた。海軍武官のものは当初「大礼服」と呼称していたが、後に「正服」、更に「正装」と改称した(海軍の正装を参照)。これら武官の正装は大礼服とは違い、私的な冠婚葬祭にも着用できた。
これらの大礼服は、昭和に入っても即位の礼(御大典)や、満州国皇帝・溥儀の第1回訪日奉迎など、宮中関係の行事や儀礼で用いられた〔東京駅での溥儀奉迎映像 YouTube)〕。しかし戦時色が濃くなるに従って、着用の機会もなくなっていった。日中戦争時に内閣総理大臣となった米内光政は、予期せぬ大命降下モーニングコートの仕立てが間に合わず、代わりに海軍の正装で親任式に臨んだ〔米内は現役軍人の総理就任は統帥権干犯につながりかねないとして、組閣と同時に予備役に編入した。米内光政の項および盛岡市先人記念館展示資料 参照。〕。
終戦後、太政官布告は「内閣及び総理府関係法令の整理に関する法律」(昭和29年7月1日法律第203号) により廃止され、関連法令もほとんどが廃止となった。また、廃止について明文規定のないものも実効性喪失とされている。一方、文化出版局の服飾辞典によると、ヨーロッパ諸王国、フランスポルトガル南アメリカ諸国、タイ王国などでは、現在でも男性用大礼服に相当するエンパイア・スタイルの宮廷服が使用されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「大礼服」の詳細全文を読む




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