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蜷川式胤 : ミニ英和和英辞書
蜷川式胤[にながわのりたね]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [しき]
  1. (n,n-suf) (1) equation 2. formula 3. expression 4. (2) ceremony 5. (3) style 
: [たね]
 【名詞】 1. issue 2. offspring 3. paternal blood

蜷川式胤 : ウィキペディア日本語版
蜷川式胤[にながわのりたね]

蜷川 式胤(にながわのりたね、1835年6月18日天保6年5月23日) - 1882年(明治15年)8月21日)は、明治初期の官僚、古美術研究家。博物館の開設に尽力し、また、日本の陶器を海外に紹介した。
== 生涯 ==
子賢の長男として京都に生まれた。幼名与三郎、また親胤。祖先は丹波船井郡高屋村(現在の京都府船井郡京丹波町富田)の代官であったが、加勢した明智光秀の敗亡のため、京都に移って東寺の客(公人 くにん)となり、代々、境内東北隅の屋敷に住んだ。
父に学び、また、若い頃から古美術を研究し、すでに1858年(安政4年)、正倉院の宝物模写図に奥書を残している〔西川明彦 東京国立博物館所蔵木漆工模造品p.24 〕。
1869年(明治2年)(35歳)7月、東京丸の内道三丁(現在の千代田区大手町2丁目)に家を与えられ、次の職歴を経た。
* 1869年7月、太政官制度取調御用掛、権少史から少史へ進み、従7位。
* 1871年、少史が廃官となり、外務省の外務大録として編輯課御用書類下調掛。
* 1872年、文部省博物局御用兼務を兼務して、八等出仕。
* 1875年、内務省博物館掛。
* 1877年、1月、病を理由に退職。
在任中の業績に、次があった。
* 1869年 - 1871年、民法編纂の会議に列して、フランス民法典の翻訳に協同した。海軍の軍艦旗と短剣、陸海軍の軍服の制定に関係した。
* 1871年、2月、太政官に許可を願い、3月、写真師横山松三郎・洋画家高橋由一と、『旧江戸城写真帖』を作った〔重要文化財『旧江戸城写真帖』 〕。常設の博物館を上野と芝に開設するよう、町田久成らと建議した。5月、田中芳男らと九段坂上で物産会を開いた〔木下直之 大学南校物産会について 〕。10月の京都博覧会の開催に尽力した。岩倉使節団のための、書類の準備に携わった。
* 1872年、3月 - 4月一杯、町田久成、当時オーストリア=ハンガリー帝国公使館勤めのハインリヒ・フォン・シーボルトらと湯島聖堂大成殿で、文部省博物局主催の日本初の博覧会を開いた。東京国立博物館の始まりとされている〔東京国立博物館の歴史 〕。これは翌年のウィーン万国博覧会の準備でもあった。5月から10月まで、(太政官の前年5月の布告『古器旧物保存方』に基づき)、町田久成に従い、高橋由一・横山松三郎らと、伊勢・名古屋・奈良・京都の古社寺や華族の宝物を調査し、さらに正倉院の調査を行った。『壬申検査』と呼ばれる〔東京国立博物館 壬申検査 120年前の文化財調査 〕。この調査のうちの正倉院開封の状況を、日記『奈良の筋道』に残した。
* 1875年、4月1日からの奈良博覧会に出展のため、再び正倉院へ出張した。
道三町の自宅には多くの陶器を所蔵した。退職前の1876年1月、屋敷の一部を出版所『楽古舎』に改め、川端玉章高橋由一らを雇い、『観古図説陶器之部』の第1 - 第5冊を、1876年から1878年にかけて刊行し、さらに1869年秋、関西へ調査の旅をした上で、第6冊を1879年に、第7冊を1880年に刊行した。石版刷りに彩色を施した画集である。京都玄々堂の松田敦朝が刷った〔林忠正旧蔵、《観古図説 陶器之部》 〕 。仏文あるいは英文の解説も付けられ、殆どが輸出され、海外コレクターの指標になった。
『楽古舎』では、同好を集めて古陶器の「当てっこ」もした。ハインリヒ・フォン・シーボルトエドワード・S・モースも訪れた。式胤は1879年初から、モースと繁く交わって日本の陶器の鑑識について教え、1000点以上と推測される古陶器を、贈り、或いは共に町に出て集めた。今日ボストン美術館が所蔵する『モース日本陶器コレクション』の発祥である〔『モース日本陶器コレクション』 〕。またシーボルトの帰国前に自著を含む少なくとも5冊の書物をおくり、これらは現在ケンブリッジ大学図書館に所蔵されている〔林望「蜷川式胤の奇妙な依頼」。〕。
1882年(明治15年)8月21日、没した。享年47。谷中の葬儀に参列したモースは、死因をコレラと記している〔モース著、石川欽一訳、『日本その日その日3』、東洋文庫179、167 - 171頁。〕。
1902年(明治35年)、姉の辰子が、『観古図説陶器瓦之部 』、『観古図説瓦之部』を刊行した。
正倉院の所蔵品の散逸に式胤が関わる、との推論が行われている〔由水常雄:『天皇のものさし』、麗澤大学出版会、2006年。ISBN 9784892054983〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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