翻訳と辞書
Words near each other
・ 増本庄一郎
・ 増本浩子
・ 増本浩平
・ 増本淳
・ 増本牧場
・ 増本甲吉
・ 増本藍
・ 増本豊
・ 増本量
・ 増村保造
増東軌道
・ 増林小学校
・ 増林村
・ 増槽
・ 増殖
・ 増殖 (YMOのアルバム)
・ 増殖(性)、 繁殖(性)
・ 増殖(性)、増殖的、生産的
・ 増殖(性)嚢腺腫
・ 増殖事業


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

増東軌道 : ミニ英和和英辞書
増東軌道[ぞうとうきどう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ぞう]
 (n) increase
: [ひがし]
 【名詞】 1. east 
軌道 : [きどう]
 【名詞】 1. (1) orbit 2. (2) railroad track 

増東軌道 : ウィキペディア日本語版
増東軌道[ぞうとうきどう]


増東軌道(ぞうとうきどう)は、現在の宮城県名取市内で1926年大正15年)から1939年昭和14年)まで営業した軽便鉄道会社およびその軌道路線である。
現・名取市内を東西に通る宮城県道129号閖上港線に沿って、名取郡田町国鉄東北本線・増田駅(現・名取駅)から東に向かい、同郡多賀村の閖上までの6km弱の軌道線を保有したが、バスとの競合に敗退して開業から10年程で廃止された。会社そのものはバス会社「増東自動車」となり、のち仙台市交通局に統合された。
== 歴史 ==
平安時代からの集落とされる閖上〔17世紀までは「淘上」「淘揚」などと表記した。〕は、安土桃山時代には少なくとも98戸の規模になっていた〔海辺の記憶 - 被災地をたどる / 第2部=名取・閖上(上)城下発展、水運で支える (河北新報 2012年12月19日)〕。慶長2年 - 6年(1597年 - 1601年)、阿武隈川河口部の亘理郡荒浜から名取川河口部の名取郡閖上まで、仙台湾に沿って木曳堀(現・貞山運河の一部)が開削され、慶長6年から本格化した仙台城造営および仙台城下町建設に必要な物資が「阿武隈川 - 木曳堀 - 名取川 - 広瀬川」という河川交通を経由して運ばれた〔運河の歴史 (貞山運河編集委員会「貞山運河事典」)〕。閖上はこの物流経路において大量の材木・米・砂金が集散する重要な結節点となり、江戸九州からも船が集まった〔。しかし、仙台城および仙台城下町そして若林城および若林城下町という広瀬川沿いの大規模な都市建設事業が終わり、また、北上川改修によって東北太平洋海運の拠点港となった石巻、あるいは、七北田川改修と運河・道路・の整備で仙台との物流経路が整備された塩竈外港の地位が移ったため、17世紀後半には閖上の船運の拠点性は失われた〔。それでも仙台藩直轄の港として漁業は発達した〔32.閖上の笹かまぼこ (名取市「なとり100選」)〕ため、江戸時代を通じて町場が形成されていた〔番号197 『御領分絵図』(年代不明) 宮城県図書館)〕〔番号200 『御領分絵図』(慶応元年(1865年)) (宮城県図書館)〕〔番号204 『仙台領分図』(寛文10年(1670年) - 延宝6年(1678年)) (宮城県図書館)〕。明治3年 - 5年(1870年 - 1872年)、閖上から七北田川河口部の宮城郡蒲生まで、仙台湾に沿って新堀(現・貞山運河の一部)が開削され、閖上は蒲生や塩竈といった物流拠点と運河系でつながれることになった〔。
一方の増田村では、慶安3年(1650年)に駅(うまや)が設置され、元禄6年(1693年)頃までに奥州街道宿場増田宿」が形成された〔会社概要 (名取まちづくり株式会社)〕。1888年(明治21年)には、増田宿の西側を通る日本鉄道(現・JR東日本東北本線)に増田駅(現・名取駅)が開業した。
明治後期になると、閖上・七ヶ浜・荒浜等で底引網漁業が発達し、動力船の導入、他県船の出入港の増加などが始まった〔塩竈市魚市場50年の歩み「第一編 魚市場前史」 (塩竈市)〕。大正初頭〔明治末に伝わったとする説もある。〕には宮城県に「三河打瀬」(打瀬網漁)と呼ばれる漁法も伝わり、閖上を初めとする仙台湾の漁港は連日大量の水揚げを記録した〔〔海辺の記憶 - 被災地をたどる / 第2部=名取・閖上(下)底引き網漁、盛衰左右 (河北新報 2012年12月20日)〕。大正期を通じて打瀬網漁業は全盛となり〔、大量の魚をさばくため魚問屋が閖上を構成する5つの(上町・中町・下町・新町・中島丁)ごとに設置された〔これらはまもなく合併して共同販売所となり、後に閖上漁業協同組合となった。〕〔。漁業で景気のいい閖上では1920年(大正9年)頃に日和山をより大きく造り変えている〔〔(名取市 第14回閖上復興まちづくり推進協議会)〕。また、かつて閖上は増田よりやや小さい集落規模だったのが、閖上が増田を大きく凌駕するようになった〔〔。
江戸時代から増田と閖上は街道で結ばれていた〔〔〔〔江戸時代、増田村は増田宿の増田代官所、閖上浜は長町宿の長町代官所の管轄。〕が、陸上交通で広域とつながる増田と、水上交通で広域とつながる閖上とをより効率的に結びつけることを企図して、両者の間に軌道線を敷設する計画がこの機に生まれた。
1923年(大正12年)8月13日、増田と閖上の有力者ら〔発起人のうち増田は25人、閖上は16人〕によりに軌道敷設願いが提出された。しかし、同年9月1日大正関東地震関東大震災)が発生すると、1924年(大正13年)3月に軌道敷設の特許が下付されたものの、震災不況により資本金30万円が集まらず、やむなく工事施行を延期したうえ資本金を9万円に変更した〔その後増資して225,000円になる。『宮城県史 5』700頁〕。総株数の9分の1を閖上が負担することになり、1926年(大正15年)3月に工事着工し、同年11月21日より開業した。
当軌道に建設許可が出る直前の1924年(大正13年)1月18日、関東大震災で被災した東京市電の代替として、東京市バス事業を開始した(円太郎バス)。すると、全国にバス事業が広まり始め、日本はモータリゼーションの時代に突入した。1930年代になると、各地でバスとの競合に敗れて5-20年程度の短い営業期間で廃止となる軽便鉄道が次々現れた。
距離も短く平坦な閑散路線であった当軌道も、必然的にバス路線との競合にさらされた。のちには自社でも路線バス〔昭和10年の路線距離は8キロ所有車両1台 『全国乗合自動車業者名簿』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕を兼業するようになり、軌道の不採算化も著しかったことから1930年代末に廃止に至った。
なお、1997年(平成9年)に当該路線は仙台市営バスから宮城交通の運行に代わり、仙台市営バス閖上出張所は廃止。2007年(平成19年)10月1日、宮城交通名取営業所の路線はミヤコーバス名取営業所の路線に移管された。その後2011年(平成23年)3月11日東日本大震災が発生、津波により閖上地区は大きな被害を受ける。2013年(平成25年)4月1日より、ミヤコーバス路線廃止に伴い、名取市民バス「なとりん号」(桜交通が受託運行)に転換された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「増東軌道」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.