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十六人裁判 : ミニ英和和英辞書
十六人裁判[じゅうろくにんさいばん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [とお]
  1. (num) 10 2. ten 
十六 : [じゅうろく]
 【名詞】 1. 16 2. sixteen 
: [ろく]
  1. (num) six 
: [ひと]
 【名詞】 1. man 2. person 3. human being 4. mankind 5. people 6. character 7. personality 8. true man 9. man of talent 10. adult 1 1. other people 12. messenger 13. visitor 1
: [さい]
 (n-suf) judge
裁判 : [さいばん]
  1. (n,vs) trial 2. judgement 3. judgment 
: [ばん]
 (n,n-suf) size (of paper or books)

十六人裁判 : ウィキペディア日本語版
十六人裁判[じゅうろくにんさいばん]

十六人裁判()とは、1945年6月に開かれた、国内軍や文民の有力者を含む、第二次世界大戦中のポーランド独立運動の指導者16人に対する見せしめの裁判。被告らは、「ポーランドに挙国一致の新政府を樹立する計画」への参画を打診されてモスクワに招待されたが、直後に内務人民委員部に逮捕され、裁判の結果「ソビエト連邦に対する武装蜂起を企てた」かどで「有罪」判決を受けた。
==経緯==
ポーランド亡命政府国内代表部(pl)と国民統一評議会(pl)の大半の議員、そして国内軍の最高指揮官がヨシフ・スターリンの同意のもと、ソ連内務人民委員代理のイワン・セーロフによって「招待」された〔〔。「招待」の口実はソビエト連邦傀儡のポーランド臨時政府を樹立することであった。その時期は1945年の2月であったとも、3月であったともいわれている〔Prazmowska, Anita (2004) ''Civil war in Poland, 1942-1948'' Palgrave ISBN 0-333-98212-6 Page 115〕〔Malcher, G.C. (1993) ''Blank Pages'' Pyrford Press ISBN 1-897984-00-6 Page 73〕〔Mikołajczyk, Stanisław (1948) ''The pattern of Soviet domination'' Sampson Low, Marston & Co Page 125〕〔Garliński, Józef (1985) ''Poland in the Second World War'' Macmillan ISBN 0-333-39258-2 Page 324〕。
彼らは身の安全の保証を条件に出席したが、結局3月27日に28日にかけて全員が内務人民委員部によって逮捕された〔〔Prazmowska, Anita (2004) ''Civil war in Poland, 1942-1948'' Palgrave ISBN 0-333-98212-6 Page 116〕〔〔Michta, Andrew (1990) ''Red Eagle'' Stanford University Press ISBN 0-8179-8862-9 Page 39〕。レオポルト・オクリツキ(pl)、ヤン・スタニスワフ・ヤンコフスキ(pl)、そしてカジミェシュ・プジャク(pl)が27日に、他の12人も翌日に逮捕された。アレクサンデル・ズヴェジンスキ(pl)はそれより早く逮捕されていた。彼らはルビャンカで取り調べを受けるため、モスクワに護送された〔〔Garliński, Józef (1985) ''Poland in the Second World War'' Macmillan ISBN 0-333-39258-2 Page 325-326〕〔Umiastowski, Roman (1946) ''Poland, Russia and Great Britain 1941-1945'' Hollis & Carter Pages 462-464〕〔Piesakowski, Tomasz (1990) ''The fate of Poles in the USSR 1939-1989'' Gryf Pages 198-199〕。数ヶ月に及ぶ無慈悲な取り調べと拷問の末〔Garliński, Józef (1985) ''Poland in the Second World War'' Macmillan ISBN 0-333-39258-2 Page 335〕、16人は以下の捏造された罪状によって起訴された。
* ナチス・ドイツとの協力〔Garliński, Józef (1985) ''Poland in the Second World War'' Macmillan ISBN 0-333-39258-2 Page 336〕〔Umiastowski, Roman (1946) ''Poland, Russia and Great Britain 1941-1945'' Hollis & Carter Pages 467-468〕
*諜報活動赤軍背後における破壊活動
*テロリズム
*ナチス・ドイツとの軍事的協力の画策〔
*ラジオ送信機、印刷機、および武器の所持〔
*ソビエト連邦に反対する 宣伝活動
*地下抵抗組織への所属〔
裁判は1945年6月18日から21日にかけて外国の報道機関とイギリスアメリカ合衆国からの立会人が参加して行われた。日程はポーランドのソビエト傀儡政府樹立に向けた会議と重複するように選ばれた〔Prazmowska, Anita (2004) ''Civil war in Poland, 1942-1948'' Palgrave ISBN 0-333-98212-6 Page 117〕〔Umiastowski, Roman (1946) ''Poland, Russia and Great Britain 1941-1945'' Hollis & Carter Pages 465-471〕。
16人の指導者らが誘拐されると、ポーランド亡命政府は直ちにロンドンワシントンを通じて抗議声明を発表し、16人の解放を要求した。ほどなくソ連は「声明はファシスト・ポーランドのハッタリにすぎない」と応酬した。5月3日、ソ連はとうとう16人を逮捕したことを認めたが、ハリー・S・トルーマンに遣わされたアメリカ政府の特使ハリー・ホプキンスに対して、スターリンは「十六人裁判はポーランドにソビエト傀儡政権を打ち立てるための陰謀ではありません。その証拠に、被告らの量刑は大したものにはなりませんから。」と釈明した。結局、イギリス・アメリカ両政府はこの説明を受け入れた。
1人を除く全員の被告が根拠のない罪状を認めさせられ、6月21日には判決が言い渡された。国際法に照らせば、この裁判は非合法なものだった。ソビエト連邦は外国の市民を誘拐し、外国で犯された犯罪をでっち上げて裁判にかけた。被告らは基本的人権を完全に無視され、拷問にかけられた。被告の1人、レオポルト・オクリツキの証人たちは法廷に入ることを許されなかったが、この措置はソビエト連邦の国内法にも違反していた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「十六人裁判」の詳細全文を読む




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