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佐賀ノ花勝巳 : ミニ英和和英辞書
佐賀ノ花勝巳[さがのはな かつみ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [さ]
 【名詞】 1. help 
: [はな]
 【名詞】 1. flower 2. petal 
: [み]
 【名詞】 1. sixth sign of Chinese zodiac (The Serpent, 9a.m.-11a.m., south-southeast, April) 

佐賀ノ花勝巳 : ウィキペディア日本語版
佐賀ノ花勝巳[さがのはな かつみ]

佐賀ノ花 勝巳(さがのはな かつみ、1917年12月5日 - 1975年3月28日)は、佐賀県佐賀市出身の元大相撲力士。本名は北村 勝巳(きたむら かつみ)。
== 来歴 ==
1934年に九州へ巡業に来た玉錦三右エ門を頼って粂川部屋へ入門し、同年5月場所に初土俵を踏んだ。翌年から玉錦三右エ門が二所ノ関部屋を創立したことで移籍した。
1939年5月場所で新入幕を果たすと、横綱男女ノ川登三から2つの金星を奪うなど活躍した。前頭筆頭で迎えた1941年1月場所は8勝7敗で三役昇進を決めたかと思われたが、同年5月場所も同じ前頭筆頭に据え置かれた。この場所を9勝6敗として今度こそ三役昇進かと思われたが、1942年1月場所も再々度前頭筆頭に据え置かれるなど、入幕直後は番付運が悪かった。それでも男女ノ川登三から再び金星を奪って9勝6敗とすると、ようやく同年5月場所に念願の小結昇進を果たした。
1944年1月場所は13勝2敗の好成績で幕内最高優勝を遂げ、5月場所も好成績をあげて場所後に大関昇進を決定させたが、巡業の都合で玉錦三右エ門の法要を繰り上げて行う際に昇進を伝えられたことから、玉錦の霊前に向かって涙を流しながら報告した。同年2月に両国国技館大日本帝国陸軍に接収されて風船爆弾の工場として使用された関係上長年佐賀ノ花の優勝額は掲額されなかったと一般に伝わっていたが、後年になって同年5月場所中である同月17日に優勝額の掲額作業が行われていたことが明らかになった〔この場所は後楽園球場での開催であった〕。その優勝額も翌1945年3月10日の東京大空襲により焼失してしまったことから、一般の好角家にはこの額をまず目にしなかったとされる。〔『相撲』2009年8月号〕
戦中~戦後にかけて混乱期の大相撲を屋台骨となって支え続け、1949年5月場所には史上初めて1場所で4横綱を倒したが、この場所を7勝8敗と負け越すと1951年1月場所を最後に大関を陥落した。さらに師匠二所ノ関(玉ノ海梅吉)の廃業を受けて年寄・二所ノ関二枚鑑札によって襲名したあと、1952年1月場所で現役を引退して部屋経営に専念した。
引退後は先代以来の「分家独立を歓迎」という方針の下、若乃花幹士琴ヶ濱貞雄玉乃海太三郎のほか、後に大横綱となる大鵬幸喜大麒麟將能を育成した。1962年には、年寄・片男波を襲名していた玉乃海太三郎の独立を巡る騒動(片男波部屋を参照)が勃発したほか、二所ノ関部屋自体の相続を巡る混乱(大麒麟將能の項目を参照)が勃発するなど、後年は独立による紛争が後を絶たなかった。
1975年3月28日に死去、。二所ノ関部屋は湊川が一時的に引き継いだ後、佐賀ノ花の次女と結婚した金剛正裕が28歳の若さで引退して継承した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「佐賀ノ花勝巳」の詳細全文を読む




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