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京都法政学校 : ミニ英和和英辞書
京都法政学校[きょうとほうせいがっこう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [みやこ, きょう, けい]
 【名詞】 1. capital 2. metropolis
京都 : [きょうと]
 【名詞】 1. Kyoto 
: [みやこ]
 【名詞】 1. capital 2. metropolis 
: [ほう]
  1. (n,n-suf) Act (law: the X Act) 
法政 : [ほうせい]
 【名詞】 1. law and politics 2. justice administration
: [せい, まつりごと]
 【名詞】 1. rule 2. government 
: [がく]
 【名詞】 1. learning 2. scholarship 3. erudition 4. knowledge 
学校 : [がっこう]
 【名詞】 1. school 
: [こう]
  1. (n,n-suf) -school 2. proof

京都法政学校 : ウィキペディア日本語版
京都法政学校[きょうとほうせいがっこう]

京都法政学校(きょうとほうせいがっこう)は、1900年明治33年)に中川小十郎らによって創設された私立学校で、現在の立命館大学(学校法人本部:京都市中京区)の前身。
本項目では後身たる専門学校令準拠の京都法政専門学校京都法政大学立命館大学についても扱う。
==概要==

===京都法政学校設立の構想と経緯===

1894年(明治27年)、文部大臣に就任した西園寺公望が「高等教育の拡張計画」を立案。第一項に、東京帝国大学と相呼応して国家の需要に応じられる高等教育機関を京都にも設置することの必要性を挙げた。これに基づいて省内に設置した京都帝国大学「創立準備委員」が1897年(明治30年)「京都帝国大学ニ関スル件」(大学設置令)を公布し、京大創設の流れが固まった。当時、文部省専門学務局勤務から文部大臣秘書官として西園寺文部大臣直属となった中川小十郎が、京都帝国大学初代事務局長に任命され大学業務を総括。京都帝国大学初代総長に就任した木下廣次らとともに、大学創設の中心的役割を担うことになった。
京都帝国大学創設事業に区切りがついた1898年(明治31年)、中川小十郎は文部省参事官の職を辞し実業界へと転身。加島銀行理事への就任を皮切りに株式会社大阪堂島米穀取引所監査役、朝日生命保険株式会社(現在の大同生命副社長に就任するなど経済人として活躍した。しかし、自らが創設の中心に関わった京都帝国大学が制度上旧制高等学校卒業生しか受け入れることができず、西園寺公望が提唱した「能力と意欲のある人に国として(教育の)機会を与えるべき」という教育理念からもかけ離れている実態に限界を感じ、自ら私学を興すことを思い立つ。翌年、教学面での協力を京都帝国大学教授だった織田萬井上密岡松参太郎らから得るとともに、学校設立事務については、西田由〔西田由(1853年-1913年、にしだ・ゆう):京都府丹波国北桑田郡(現・京都府南丹市)神吉村生まれ。京都電気鉄道会社初代社長・高木文平の実弟。6歳のとき西田家に養子に入った。1897年(明治30年)、京都帝国大学書記官(事務総長)・中川小十郎のもと、庶務課長として京都帝大創設にかかわった。1898年(明治31年)退官し、島根県師範学校校長に就任。翌1899年(明治32年)には、中川小十郎に請われ朝日生命保険株式会社(現在の大同生命)専務取締役として財界に籍を置く傍ら、京都法政学校の創立事業に参加し、同校理事を務めた(出典: 『京都法政学校創立事務所 - その場所と人をめぐって -』 著・久保田謙次「立命館百年史紀要 第20巻」)。〕(朝日生命株式会社 専務取締役)、橋本篤〔橋本篤(1869年-1911年、はしもと・あつし):京都府丹波国北桑田郡(現・京都府南丹市)神吉村生まれ。同志社、東京法科大学で学んだ後、京都府議会議員、郡会議員になった。中川小十郎に請われ、朝日生命保険株式会社(現在の大同生命)で営業部長として活躍。その後中川が京都法政学校設立に動き出すとこれに参画し、同校創立後は理事、講師を務めた。1911年(明治44年)、大同生命常務取締役、加島屋理事在職中に亡くなった(大同生命保険株式会社 初代支配人)(出典: 『京都法政学校創立事務所 - その場所と人をめぐって -』 著・久保田謙次「立命館百年史紀要 第20巻」)。〕(大同生命保険株式会社 初代支配人)、山下好直〔山下好直(1865年-1941年、やました・よしなお):京都市上京区の竹園校(後の室町校)で校長を務めた。慶応義塾を経て東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業。宮内省に入省したが、1897年(明治30年)京都帝国大学会計事務に転任した。京都法政学校創立の中心メンバーとして活躍した。自宅は京都市上京区の上御霊神社近くで、中川小十郎の妻・好栄の所有地の向かい側だった(出典: 『京都法政学校創立事務所 - その場所と人をめぐって -』 著・久保田謙次「立命館百年史紀要 第20巻」)。〕(京都府議会議員)、河原林樫一郎〔河原林樫一郎(1874年-1939年、かわらばやし・けんいちろう): 京都府北桑田郡(現・京都府南丹市)山国村生まれ。同志社、東京専門学校(現在の早稲田大学)で学び、卒業後はベルリン大学に留学。帰国後、東洋レーヨン三井物産などに勤務した。河原林義雄の長女と結婚した。「法政時論」第五号(明治38年5月)および第六号(明治38年6月)に「現今の帝国主義的思想」という論文を発表した(出典: 『京都法政学校創立事務所 - その場所と人をめぐって -』 著・久保田謙次「立命館百年史紀要 第20巻)。〕(東洋レーヨン 常務取締役)、羽室亀太郎〔羽室亀太郎(1861年-1941年、はむろ・かめたろう):京都府綾部出身。郡是製糸株式会社(現・グンゼ)初代社長・羽室嘉右衛門、二代目社長・波多野鶴吉(郡是製糸株式会社創業者)の実弟。京津電気軌道の支配人、常務取締役を経て社長に就任。株式会社中立貯蓄銀行松原支店支配人、株式会社京都農商銀行取締役在職中に京都法政学校の創立に関与。同校創立後は理事に就任した(出典: 『京都法政学校創立事務所 - その場所と人をめぐって -』 著・久保田謙次「立命館百年史紀要 第20巻」)。〕(京津電気軌道 支配人)らの協力を得て、また設立賛助員として京都政財界の大物(内貴甚三郎〔内貴甚三郎(1848年-1926年、ないき・じんざぶろう): 1898年(明治31年)から1904(明治37年)まで初代京都市長を務めた。退任後は衆議院議員となり、その後京都商工銀行取締役、京都商業会議所副会頭となり、田中源太郎浜岡光哲大澤善助らとともに、「京都四元老」と呼ばれた。長男・内貴清兵衛も1928年(昭和3年)から1934(昭和9年)、1936年(昭和11年)から1941年(昭和16年)まで、財団法人立命館の協議員だった(出典: 『京都法政学校創立事務所 - その場所と人をめぐって -』 著・久保田謙次「立命館百年史紀要 第20巻」)。〕、浜岡光哲田中源太郎、中村栄助〔中村栄助(1849年-1938年、なかむら・えいすけ): 京都市下京区生まれ。河原林義雄とともに京都農商銀行の経営に携わっていたが、政界に転身し京都市初代市会議長として活躍。1890年(明治23年)から1902年(明治35年)まで衆議院議員としても活躍した。財界においては1887年、関西貿易合資会社、1888年、京都電燈株式会社を設立し取締役・監査役を務めた。また京都倉庫、京都米穀取引所、京都商品取引所、鴨東銀行、京都鉄道、京都電鉄、京福電鉄、都ホテルなどの設立・運営事業などに、京都財界人として貢献した。(出典: 『京都法政学校創立事務所 - その場所と人をめぐって -』 著・久保田謙次「立命館百年史紀要 第20巻」)〕、雨森菊太郎高木文平、河原林義雄〔河原林義雄(1851年-1910年、かわらばやし・よしお):京都府丹波国北桑田郡(現・京都府南丹市)山国村生まれ。中川小十郎に請われ京都法政学校の設立発起人となる。明治30年代には株式会社京都米穀取引所理事長、自ら設立した株式会社京都農商銀行頭取を務めた財界人。1904年(明治37年)に行われた第二回京都法政専門学校卒業式に来賓として出席した記録が残っている(出典: 『京都法政学校創立事務所 - その場所と人をめぐって -』 著・久保田謙次「立命館百年史紀要 第20巻」)。〕)の力を借り、京都法政学校設立事務所を朝日生命保険株式会社の一角に設置した。
1900年(明治33年)5月4日、京都府知事に対し「私立京都法政学校設立認可申請書」を提出。同年5月19日、晴れて設置が認可され、同6月5日に開校式典を開いている。初代校長には、民法起草者の一人で東京帝国大学教授富井政章が就任した。富井は1927年昭和2年)8月31日まで京都法政学校長、私立立命館大学長の任にあたった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「京都法政学校」の詳細全文を読む




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