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上杉治広 : ミニ英和和英辞書
上杉治広[うえすぎおさむひろ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [じょう]
 (n,pref,suf) 1. first volume 2. superior quality 3. governmental 4. imperial 5. top 6. best 7. high class 8. going up 9. presenting 10. showing 1 1. aboard a ship or vehicle 12. from the standpoint of 13. as a matter of (fact) 13. superior
: [すぎ]
 【名詞】 1. Japanese cedar 2. cryptomeria japonica 

上杉治広 : ウィキペディア日本語版
上杉治広[うえすぎおさむひろ]

上杉 治広(うえすぎ はるひろ)は、出羽国米沢藩の第10代藩主。8代藩主・上杉重定の次男で第9代藩主・上杉治憲(鷹山)の養嗣子。
== 生涯==
明和元年7月11日1764年8月8日)に米沢に生まれる。幼少期は治憲の側近の一人の木村丈八高広が教育掛をした。天明2年(1782年)に同母兄の勝煕を差し置いて治憲の養嗣子となる。天明5年(1785年)、養父の隠居により家督を継いだ。この時、治憲が若年の治広に家督を譲ったのは、改革の抵抗勢力による反発や疲労、幕府普請の回避、徳川光圀が兄・頼重の子である綱條を後継にした例に倣って、先代重定存命中の先代実子への継承希望などがあったものと言われている。家督相続の際、治憲は治広に対して次のような訓戒(伝国の辞)を送っている。
家督を継いだ治広は実父重定とともに、隠居した治憲に自身の藩政後見を要望した。このため政務については治広を前面に立てたとはいえ、実質的には治広の治績は治憲の後見によるところが大きく、治広が独自の政策を口出す機会は無かったと言われている。
天明年間は志賀祐親が財政再建を主導するも失敗し、寛政以降は莅戸善政政以親子が中心となって財政再建及び改革が進行し、養父の改革は治広治世中にその成果があらわれ、寛政3年(1791年)に領内の人口が9万9119人だったのが、寛政10年(1798年)には10万3721人となる。享和元年(1801年)に町在に五什組合を組織させ、相互扶助の体制を整えた。また、治世中に藩事業としては初めての用水路工事である北条郷新堰工事が黒井忠寄より行われ、黒井の発案した飯豊山穴堰工事も着手された。
治憲の養子となった年にその長男・顕孝を世子としたが、顕孝が早逝したため、甥(勝煕の長男)の斉定を世子とし、治憲が養育・薫陶した斉定の成長を待って文化9年(1812年)9月7日に隠居した。
文政2年(1819年)には持病の中風症が再発したため、治憲と共に赤湯温泉に湯治に行った記録がある。
文政5年3月11日(1822年4月2日)に鷹山が死去すると、半年後の9月11日10月25日)にその後を追うように死去した。享年59。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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