翻訳と辞書
Words near each other
・ 丁型改
・ 丁型改2潜水艦
・ 丁型改二潜水艦
・ 丁型海防艦
・ 丁型潜水艦
・ 丁型駆逐艦
・ 丁士源
・ 丁声樹
・ 丁多雲
・ 丁夫人
丁奉
・ 丁子
・ 丁子家宗家
・ 丁子屋
・ 丁子屋百貨店
・ 丁子末
・ 丁子油
・ 丁字
・ 丁字咲き
・ 丁字定規


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

丁奉 : ミニ英和和英辞書
丁奉[てい ほう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ひのと, てい]
 【名詞】 1. 4th in rank 2. fourth sign of the Chinese calendar

丁奉 : ウィキペディア日本語版
丁奉[てい ほう]

丁 奉(てい ほう、? - 271年)は、中国三国時代の武将。揚州廬江郡安豊県の人。字は承淵。弟は丁封。子は丁温。『三国志志に伝がある。
== 生涯 ==
孫権の時代から仕えた。若い頃から勇猛で名を馳せ小部隊を率いる立場となり、甘寧陸遜潘璋らの指揮下で頻繁に敵将を討ち取り軍旗を奪うなど、大いに武功を挙げた。よく負傷もしたといわれる。偏将軍に昇進した。
孫亮が即位すると、冠軍将軍・都亭となった。
252年が併呑するため攻勢をかけてきた時、魏の胡遵諸葛誕率いる七万の軍を、諸葛恪の指揮下で東興において迎え撃った。他の部将達が諸葛恪自ら出陣した以上、魏軍は恐れをなして引き揚げていくだろうと楽観したが、丁奉はただ一人その見方に異議を唱え、戦う覚悟を持つよう主張した。諸葛恪が軍を上陸させると、丁奉は唐咨呂拠留賛らと共に山岳地帯を通って西方に向かい、上流に出ようとした。丁奉はそれぞれの軍団の動きが遅いことを見て、敵に先手を取られないよう迅速に行軍するため、味方には別行動をとらせ、一人で三千の兵を率いて敵陣に急行した。北風が吹いていたため目的地に辿り着くまで二日を要した。陣は徐塘に張った。
丁度降雪しており、魏軍は酒宴を開いていた。丁奉は魏軍の前衛が薄いのを見て取り、兵士を鼓舞しつつ鎧を脱がせて冑に剣だけを持たせ、奇襲をかけた。魏軍は油断し備えを怠っていたため、丁奉に前衛陣地を散々に撃破された。その時、呂拠らが遅れて戦場に到着し、ともに攻撃して大破させた。戦いは呉軍の大勝となり、功績によって滅寇将軍に任じられ、都郷侯に封じられた(東興の戦い)。
255年、魏の寿春において毌丘倹文欽が反乱を起こし、呉への降伏を申し入れてきた。丁奉は虎威将軍に任命され、実権を握っていた孫峻に従い、文欽の救援に赴いた。途中で敗走してきた文欽を収容する途中、呂拠と共に高亭で魏の曹珍と戦い、自ら敵陣に突入し、数百の首級を挙げ、敵の軍器を奪った。安豊侯に封じられた。
256年、孫峻の死後に孫綝と呂拠達が対立すると、孫綝の命令を受け、孫綝の従兄の孫憲や施寛と共に、呂拠の討伐に赴き、江都に軍を進めた(「三嗣主伝」)。
257年、魏で諸葛誕が反乱を起こし、呉への帰服を申し入れてきた(諸葛誕の乱)。諸葛誕が魏の大軍に包囲されていたため、呉は朱異や唐咨を援軍として派遣し、さらに丁奉と黎斐にも救援に赴くよう命令を下した。丁奉は突撃隊長として黎漿に布陣し、戦って功績を挙げ左将軍となった。
孫休は即位すると、専横の振る舞いが甚だしかった孫綝を打倒するため、腹心の張布と策を練った。張布は「丁奉は事務的な能力はないが、巧みに計略を巡らすことや、実行力に優れている」として、丁奉を計画に加えるよう推挙した。孫休は丁奉を呼び寄せ、孫綝打倒の意向を打ち明けた。丁奉は孫綝一族の力を警戒し、祭りの日に群臣達が集まる機会を利用し、孫綝を捕らえて誅殺するよう進言した。孫休はこの計画を容れ、孫綝を誘き出し、張布と丁奉にその場で左右の者へ目配せをさせ、孫綝を斬らせた。その功績によって大将軍に任命され、左右都護を加えられた。
260年、仮節を与えられ、徐州に任命された。
263年5月、魏が蜀漢に侵攻したときには、蜀の援護のため寿春を攻撃し魏を牽制したが、蜀が滅亡したため引き揚げた。また、蜀への援軍として派遣された将軍の一人として、名が挙がっている(「三嗣主伝」)。
孫休が死去すると、万彧の勧めで孫皓の擁立が持ち上がり、丁奉も濮陽興達と図ってこれに同意した。孫皓の即位後に右大司馬・左軍師に任じられた。
266年12月、陸凱が孫皓の廃位を計画すると、丁奉も丁固と共に加担した。孫皓が廟に詣でるときを狙っていたが、警護役を務める留平の協力が得られなかったため、実行することができなかった(「陸凱伝」)。孫皓の警戒心が強かったことの他、丁奉と留平が不仲であったことが一因だったという(「陸凱伝」が引く『呉禄』)。
268年秋9月、孫皓は東関に軍を進めた(「三嗣主伝」)。丁奉は孫皓に合肥攻撃を命じられ、諸葛靚と共に軍を進めた。このとき、丁奉は石苞に偽りの手紙を送り、司馬炎(武帝)に疑惑を抱かせた。そのため石苞は召し返され、免職にされた。
269年、丁奉は徐塘を修復し、晋の穀陽を攻撃した。しかし、この攻撃は穀陽の住民に予め察知されていたため、丁奉は何の戦果も挙げることはできなかった。孫皓は怒って丁奉配下の導軍役を斬った。
271年、万彧が丁奉と留平に対し、孫皓を見限るような発言をした。これを知った孫皓は、万彧と留平に毒酒を送るなど迫害し死に追い込んだが、丁奉に対しては何の咎めもなかったという(「三嗣主伝」が引く『江表伝』)。同年死去した。官位が昇進するにつれて傲慢な態度が目立つようになったため、死の翌年には孫皓に対して讒言する者が出た。そのため生前の軍事行動での失敗を理由に、丁奉の遺族は臨川郡に強制移住となった。
弟は後将軍となったが、丁奉より先に亡くなった(「三嗣主伝」)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「丁奉」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.